{column0}


(C) Designroom RUNE
総計- 本日- 昨日-

{column0}

馬込文学圏ダンス事情

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ダンスに興じる人たち 馬込文士村レリーフより

 

昭和3年11月26日(1928年。 室生犀星(39歳)の日記に次の一節があります。

・・・夕飯に萩原を招ぶ、後に萩原の家に行き奥さんからダンスを習ふ、生まれて初めてなり、ダンスをするごとに二階すこしく動く、辞退してもダンスをせねばならず、奥さんに乞ひてビールを飲み、元気をつける・・・

文中の“萩原”は萩原朔太郎です。数週間前に当地(山王四丁目)に越して来た犀星も、早々にダンスの洗礼を受けたのが分かります。これが小説になると、

・・・松平は踊ることが出来ないしそんな気にもならなかつたから、何度もかへろうとしたが、織本は皆が間もなく集まるから踊るのを見物してゐたつていいのだよと言ひ、細君の劉子は英語をしやべるやうな声で、松平さんみたいにくすぶつてゐたつて何んにもならないわよ、今夜いらつしつたからには踊らせないで帰さないから、そのつもりでゐらつしやいと言つて、松平の手を取つて無理に引立てようとした。
「教へてあげるからお立ちなさいよ、ダンスなんてそりや簡単なものよ。」
「僕はだめ。全くだめ。」
松平は手首を握られてゐるが立たうとしなかつた。
「そんな気の小さいことを言ふもんぢやないわ、男らしく女に手を取られたら立つものよ。」
 織本は笑つて劉子はおれとはうまいんだから、立つだけ立つて習つて見たらどうだいと、織本らしい放任主義めいた暢気な顔つきで云った。
「でも僕には踊る気がないんだから駄目さ。」
 松平は身もだえをして見たが劉子は少し痛いくらゐ手首に絡みついて、放す気色がなかつた。
「立たなきやだめよ、どうしても踊らせて見せるわよ。」
 劉子は夫の織本にわざと笑つて見せたが、織本は只をかしさうにくくつと笑つた。松平はどうしても劉子が手を放してくれないので、ちつと執拗さがこぢれて厭な気にもなつたが、やつと面倒臭さうに立ち上つた。
「では少し……」
「ほら、おいやではないんでせう。」
 劉子はあたくしのお腰に右の手をかけるのよとか、あたくしが足を引いたらあなたの足を前に出すのよとか、大胆にあなたの好きなやうに進んでいらつしやいとか・・・・(室生犀星『青い猿』より)

となります。

『青い猿』の挿絵より。絵:恩地孝四郎
『青い猿』の挿絵より。絵:恩地孝四郎

------------------------------------------------------

この頃、全国的にダンスがブームで、当地の作家たちも夢中でした。

当地でダンスが本格化したのは、衣巻省三(28歳)の存在が大きいです。彼は東京目黒のアパート 「恵比寿倶楽部」にいた大正10年頃から日本社交ダンスの草分け池内徳子からダンスを教わり、当地に来てからも彼女の出張レッスンを受けていました。妻の光子とは帝国ホテルのダンスパーティーで知り合ったという筋金入りです。

時期的には、芥川龍之介が、自殺する昭和2年、暇乞いに朔太郎の家を訪れると、すでにもう、ダンス会が開かれていました。その時のことは、上で紹介した犀星の『青い猿』にも出てきます。芥川らしき“有名な小説家”が生真面目に見詰めるので、ダンス会の場がだんだん白けてきます。

みんなでダンスをしようと言い出したのは、宇野千代(30歳)です。 宇野主導の「最初のダンス会」 は、宇野の家(南馬込四丁目)で開かれました。川端康成の秀子夫人も参加しているので、川端夫妻が当地に来る昭和3年5月以降のことでしょう。

朔太郎の家と宇野の家でやられていた二つのダンス会が、衣巻の家(南馬込四丁目)の光子夫人の10畳あって広々した日本画のアトリエを会場にして、合流という感じでしょう。朔太郎の家の畳の上でのダンスに比べ、数段快適だったでしょう。上に掲げたレリーフは衣巻家でのダンス会をイメージしたと思われ、上の写真では切れていますが、レリーフの右側にアトリエを思わせるイーゼルが描かれています(下の丸写真参照)。

芥川龍之介

衣巻家でのダンス会に足しげく通ったのは、朔太郎の妻の稲子朔太郎の妹の愛子(後に佐藤惣之助三好達治の妻となる)。朔太郎にいわせると、 ダンスには“効用” があり、妻が違う男性とダンスするのを見るのは適度な嫉妬心が喚起され、夫婦生活の良い刺激になるとか・・・(笑)。

当時当所でダンスしたのは、上で紹介した面々のほか、佐藤惣之助(38歳)広津和郎(36歳)黒田辰男(26歳)志賀直哉(45歳)など(年齢は、上の犀星の日記が書かれた昭和3年11月26日時点)。

当地でのダンスは、朔太郎が当地に来た大正15年から、朔太郎夫妻がダンスが元で不和になる昭和3年までの3年間、盛んでした。

------------------------------------------------------

衣巻のほかにも、ダンスをスマートにこなす“モダンボーイ”として、、稲垣足穂(当時21歳)今井達夫(当時17歳)の名を挙げることができます。足穂は、アパート「恵比寿倶楽部」にいた頃(大正10年頃)の衣巻のところにしばしば出入りし、日本でのダンスの草分けの池内徳子とも親しくなり、彼女が大正12年、東京西巣鴨に「ダンシング・パビリオン」を開設すると、住み込んで手伝ったりもしています。 後年の飲んだくれの足穂からは想像できませんが、当時はそうとう踊れたのでしょう(年齢は、大正10年時点)。

------------------------------------------------------

とはいっても、当地ゆかりの人で、ダンスといえば、萩原葉子を第一に挙げなくてはならないでしょう。朔太郎の娘です。葉子は、子どもの頃、両親がダンスに熱中したことでずいぶん辛い思いをしたはずです。昭和4年には、母の稲子(29歳)が、夫の朔太郎(43歳)、娘の葉子(9歳)葉子の妹の明子を置いて、ダンス仲間と出奔してしまうのですから。しかし、両親に連れられていった池内「ダンシング・パビリオン」の記憶などが甘美に甦ったのでしょうか、昭和40年頃(45歳頃)ダンスに目覚め、国内の教室に通うだけではもの足りず、海外にまで習いにいき、家にダンススタジオを作り、しまいには、ダンスを教え、ダンスの本まで書いています。ダンスが彼女の人生を支えたのです。また、息子(萩原朔美氏)の人生まで変えました葉子は生前、著名な舞踏家の大野一雄や土方巽とも親交しています。

------------------------------------------------------

初期のゴジラ映画(昭和29年〜30年)には、ダンスパーティーの場面があります。平和の象徴でしょう。そこに、ぬっと破壊的なゴジラが出没する。このコントラストに観客は震え上がったことでしょう。

 

永井良和『社交ダンスと日本人』 萩原葉子『ダンスで越えた私の人生』
永井良和『社交ダンスと日本人』 萩原葉子『ダンスで越えた私の人生』

■ 馬込文学マラソン:
室生犀星の 『黒髪の書』 を読む→
萩原朔太郎の 『月に吠える』 を読む→
宇野千代の 『色ざんげ』 を読む→
芥川龍之介の 『魔術』 を読む→
三好達治の『測量船』を読む→
志賀直哉の 『暗夜行路』 を読む→
稲垣足穂の 『一千一秒物語』 を読む→
萩原葉子の 『天上の花』 を読む→

■ 参考文献:
・ 「馬込文士村(7-8)」(谷口英久
 ※「産経新聞」 平成3年1月15日、1月18日)

・ 『大田文学地図』
 (染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行) P.48-49

・ 『青い猿』(室生犀星 春陽堂 昭和7年発行)P.73-90
 ※国立国会図書館デジタルコレクション/ 『青い猿』(室生犀星)→

・ 『昭和初年のインテリ作家』(広津和郎 改造社 昭和9年発行)P.248

・ 『父・萩原朔太郎(中公文庫)』
 (萩原葉子 中央公論社 昭和54年初版発行 昭和61年7版参照) P.105-108

・ 『馬込文学村二十年』(今井達夫 鵠沼を語る会 平成24年発行) P.18

・ 『萩原葉子(作家の自伝)』
 (日本図書センター 平成10年発行) P.270

・ 『馬込文学地図』
 (近藤富枝 講談社 昭和51年発行) P.72

■ 参考サイト:
ウィキペディア/社交ダンス→

近代デジタルライブラリー/室生犀星『青い猿』P.73〜→


※当ページの最終修正年月日
2017.4.17

この頁の頭に戻る