魔術師の名は、マテイラム・ミスラ。

テーブルクロスの花柄を指でつまんで取り出してみせたり、灯の入ったランプを激しく回転させたり、本箱の中の本をコウモリのように部屋中に飛び交わしたり、そんなことがわけなくできてしまうすごい奴だ。

そして、この男が実在の人物のようだから、驚きだ。小説の中でも、

マテイラム・ミスラ君と云へば、もう皆さんの中にも、御存じの方が少くないかも知れません。

と、作者(芥川龍之介)は語り掛けてくる。

今、我々は、マテイラム・ミスラといわれても「?」であるが、どうやらこの小説『魔術』が発表された当時は、「ああ、あのマテイラム・ミスラか!」と思い当る人もけっこういたようである。なんせ、実在の魔術師なのだから。

それで、人々の記憶にもあったマテイラム・ミスラとは何者なのか? で、本当に実在したのか?

『魔術』が発表される3年ほど前のこと、谷崎潤一郎が『ハッサン・カンの妖術』という小説を書いている。実は、その『ハッサン・カンの妖術』の中に、このマテイラム・ミスラが登場するのだ。むろん谷崎が作り出した架空の人物だろう。それを芥川がこの小説で借用したというわけ。“実在した”というのは、小説の中に“実在した”ということでした。すみません。

フィクションであっても、引用されて使われる時に、そこに不思議な真実味がかもし出される。嘘デタラメであっても、印刷されて本になったりすれば、それが真実としてまかり通るのに少し似ているかもしれない。芥川龍之介は、それを利用したのだ。これも、ちょっとした“魔術”といえなくもないな。


『魔術』について

芥川龍之介の短編小説。大正8年11月10日に書き上げられた、大正9年1月、「赤い鳥」に掲載された。短編なので一冊になっているものは少ないが(絵本にはある)、収録されている全集・選集は多い。

上記のように、作中のマテイラム・ミスラは谷崎潤一郎の『ハッサン・カンの妖術』からの借用なのだが、『ハッサン・カンの妖術』ではマテイラム・ミスラは山王(現山王1丁目あたり)に住んでいることになっている。『魔術』でも、マテイラム・ミスラは、大森界隈に住んでいることになっており、辻褄が合う。『魔術』は、マテイラム・ミスラの邸宅を主人公が人力車で訪ねる場面から始まるが、「険しい坂を上ったり下ったりして、やつと」という表現から、人力車の出発地点(おおそらく大森駅)からはかなり離れた辺りとイメージされる。

作家別馬込文学圏地図「芥川龍之介」→


芥川龍之介について

10歳にして古典から近代文学までを読む
明治25(1892)年3月1日、東京中央区明石町(現、聖路加病院脇)で生まれる。辰年辰月辰日辰時に生まれたことから龍之介と名づけられた(龍は辰に割り当てられた動物)。生後8ヶ月頃、実母のフクが発狂したため、叔父の芥川家(東京本所)に預けられ、後に養子になる(11)。叔母フキの早期教育を受けて5歳から文字を読み、10歳で近松門左衛門や泉鏡花をたしなんだ。

売れっ子作家となる
明治43年(18)、第一高等学校に入学。菊池寛久米正雄山本有三倉田百三土屋文明らが同期。大正2年( 21)、東京帝国大学英文科に入学。在学中に『羅生門』を脱稿するが反響なく、翌年「新思潮」に発表した『鼻』が夏目漱石の目に止まり、文壇デビューとなる。卒業後、横須賀の海軍機関学校の教師になるが、しばらくして退職し、創作に専念するようになった。
芥川の小説は様々な文献からモチーフをとり、江戸前の美意識とユーモアと諧謔を織り交ぜて再構成するといったものが多く、「歴史物」「王朝物」「切支丹物」「開化物」「現代物」といったものがある。当時主流だった自然主義小説やプロレタリア小説とは縁遠い。文学史上では耽美派や芸術至上主義に位置づけられるが、理知的に小説世界を構築したことから新理知派・新技巧派と言われることもあるようだ。句作においても才能を発揮した。
田端の書斎は餓鬼窟と呼ばれてサロン化し、小島政二郎佐々木茂索ら文学青年が集い、芥川は彼らに大きな影響を与えた。

世間を驚かせた最期
大正10年(29)、4ヶ月間の中国旅行を終えた辺りから神経衰弱に悩むようになり、また、創作でも行き詰まるようになった。昭和2(1927)年7月24日未明、田端の自宅で睡眠薬を致死量飲んで自殺。35歳だった。墓所は東京都巣鴨の慈眼寺( )。


芥川龍之介と馬込文学圏

馬込文学圏には、芥川がいる田端から流れてきた萩原朔太郎室生犀星、「赤い鳥」つながりの北原白秋、憧れの麗人片山廣子らの家があり、芥川はそこを訪ねている。

室生犀星の昭和4年1月16日の日記には、芥川と大森ホテルで食事した夢が記されている。実際にも芥川は、大森ホテルを利用したことがあるかもしれない。

特筆すべきは片山廣子で、芥川は帝大在学中、片山の歌集『翡翠』の好意的批評を「人文」に書き、以後も「文学の上で対決できる唯一の女性」として意識している。大正13年(32)、軽井沢のつるや旅館で偶然片山と出会い、その頃から尊敬の念がしだいにプラトニックな恋愛感情へと変化していったようだ。片山への思いを綴った旋頭歌「越し人」や、その胸中を室生犀星に綴った書簡などが残っている。二人の関係は、堀 辰雄の『聖家族』などの作品でも示唆されている。

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参考文献

●『群像 日本の作家11 芥川龍之介』
(小学館 平成3年)

●『馬込文学地図』
(近藤富枝 講談社 昭和51年) P.178-P.188
[馬込文学マラソン] 近藤富枝の『馬込文学地図』を読む→

●『座談会 昭和文学史 (一)』
(井上ひさし・小森陽一 編著  集英社 平成15年)
※ 第2章「谷崎潤一郎と芥川龍之介」

●『昭和文学作家史』
(毎日新聞社 昭和52年) P.77、P87-91


参考サイト

●ウィキペディア/芥川龍之介→辰→

馬込文士村ガイドの会/室生犀星・片山広子と軽井沢→

松岡正剛の千夜千冊/『侏儒の言葉』芥川龍之介→

文学者掃苔録図書館>芥川龍之介→

 


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※当ページの最終修正年月日
2008.5.31