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芥川龍之介『魔術』を読む(実在した魔術師)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

魔術師の名は、マテイラム・ミスラ。

テーブルクロスの花柄をつまんで取り出したり、灯の入ったランプを独楽のように回したり、本棚の本をコウモリのように部屋中に飛び交わすことができたりする。

しかも、この男が“実在の人物”というのだから驚く。 小説の中で著者は言う。

マテイラム・ミスラ君と へば、もう皆さんの中にも、御存じの方が少くないかも知れません。

今、マテイラム・ミスラと言われても 「誰? その人」 であるが、この小説 『魔術』 が発表された頃は、「ああ、あの人ね!」 と思い当たる人もけっこういたようだ。

『魔術』 が発表される3年ほど前、谷崎潤一郎が 『ハッサン・カンの妖術』 いう小説を書いている。実は、その小説に、このマテイラム・ミスラが登場するのだ。むろん谷崎が作り出した架空の人物だろう。それを芥川は、まことしやかに引用したというわけだ。“実在した”といっても、谷崎の小説の中に。

架空のことと分かり切っていても、引用されるとき、そこに不思議な真実味がかもし出される(歴史修正主義者などが悪用しそう)。 これも一種 の“魔術” と言えなくもない。


『魔術』 について

芥川龍之介の短編小説。大正8年(27歳)に脱稿、翌大正9年に 発表された。1年前の大正7年に書かれた『蜘蛛の糸』(思いやりを失うことによる身の破滅)、翌年の大正9年に書かれる 『杜子春』(全てを失った人物がその真心で救済される)と同様教訓的。3作品とも児童文芸誌「赤い鳥」 に掲載された。青空文庫:『魔術』→ 『蜘蛛の糸』→ 『杜子春』→

この頃芥川は、実父を喪い、横須賀の海軍機関学校の英語教師を辞して東京田端に戻った。妻以外の女性(秀 しげ子)に心惹かれ、最大の親友・小穴隆一とも出会う。この変化の多い時期の不安定さが主人公に投影されているかもしれない。

『魔術』 は当地(東京都大田区大森)が舞台になっている。 魔術師・マテイラム・ミスラの住所を、谷崎の 『ハッサン・カンの妖術』では「山王一二三番地」としている。

芥川龍之介 『蜘蛛の糸・杜子春・トロッコ 他十七篇(岩波文庫)』。「魔術」も収録 谷崎潤一郎 『潤一郎ラビリンス〈6〉異国綺談 (中公文庫)』。「ハッサン・カンの妖術」を収録
芥川龍之介 『蜘蛛の糸・杜子春・トロッコ 他十七篇(岩波文庫)』。「魔術」も収録 谷崎潤一郎潤一郎ラビリンス〈6〉異国綺談 (中公文庫)』。「ハッサン・カンの妖術」を収録

芥川龍之介について

芥川龍之介 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典 :『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』
芥川龍之介 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典 :『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』

10歳にして古典から近代文学までを読む
明治25 年3月1日(1892年)、東京都中央区の明石町あかしちょう (現在「聖路加病院」map→辺り ※写真→) で生まれる。辰年辰月辰日辰時に生まれたことから龍之介と名づけられる (辰の動物は龍)。 生後8ヶ月頃、実母のフクが発狂したため、フクの実兄・芥川 道章どうしょう に預けられ、東京本所に住む。 11歳で道章の養子になった。 道章の妹でフクの姉のフキも同居、彼女の早期教育によって5歳から文字を読み、10歳で近松門左衛門泉 鏡花を読む。 後年、芥川はフキのことを 「僕の生涯を不幸にした人で、無二の恩人」 と語った。

夏目漱石から認められた理知派
明治38年(13歳)、東京府立第三中学校(現・両国高校)に入学。 担任の広瀬 ゆう は、室生犀星の隣に住んでいたため、同校出身の堀 辰雄犀星に紹介、犀星芥川は親交していたので、芥川との関係も生まれた。明治43年 (18歳)、第一高等学校に入学。 菊池 寛久米正雄と同級で、落第した山本有三土屋文明とも同じクラスとなる。倉田百三矢内原忠雄藤森成吉ふじもり・せいきち とも同期。 大正2年 ( 21歳)、東京帝国大学英文科に入学。 大正4年(23歳)、夏目漱石 (48歳)の木曜会に参加、漱石に読んでもらうことを目的に久米菊池らと第四次 「新思潮」 を創刊(大正5年)。 「鼻」 を漱石から賞賛された(漱石はその年<大正5年>12月に死去)。 卒業論文は 「ウィリアム・モリス研究」。

卒業後、神奈川県横須賀の海軍機関学校の英語教師をしつつ執筆。 大正7年(25歳)、塚本 ふみ (17歳)と結婚。「大阪毎日新聞」と執筆契約を結び、翌年(大正8年)、海軍機関学校を辞する。鎌倉から東京田端の実家に居を移し、家計を支える。執筆量をこなすため、食卓まで駆けていき、片膝立てで食事をかき込みまた執筆に戻る、といったエピソードが残る。彼の書斎は「餓鬼窟」と呼ばれてサロン化し、小島政二郎らが集う。

初期の 「羅生門」「鼻」 などは 『今昔物語』 から想を得たものだが、以後、 「王朝物」 「切支丹物」 「開化物」 「現代物」など、様々な文献からモチーフをとり、江戸前の美意識やユーモアや諧謔を織り交ぜて独自の理知的小説空間を築く。

世間を驚かせた最期
大正10年 (29歳)、4ヶ月間の中国旅行後から神経衰弱がちとなり、創作でも行き詰まる。プロレタリア陣営から 「ブルジョア作家」 のレッテルを貼られたこともあり、社会主義関連の文献を読みあさり文学的脱皮を企ろうとした。また、志賀直哉の「筋のない小説」にも関心を寄せ、志賀を訪ね、助言を請うている大正13年、14年の夏は軽井沢で楽しげな日々を送ったが、翌大正15年始めから、神奈川県湯河原の中西屋や、神奈川県鵠沼の東屋旅館で療養。昭和2年に入ると姉ヒサの家が全焼し、2日後には放火の疑いをかけられたヒサの夫(芥川からすると義兄)が鉄道自殺をし、芥川はその後始末に奔走。 その間も多くの仕事が舞い込む。 友人の結婚式の媒酌人を引き受けるなど、知り合いの面倒もよく見た。“いい人”過ぎたのかもしれない。

昭和2年(1927年)7月24日未明、田端の自宅で睡眠薬を致死量飲んで自殺。前夜までイエス論『西方の人 Amazon→』を書いていた。35歳だった。墓所は東京都巣鴨の慈眼寺( )。

妻のふみ は、芥川亡き後も芥川の3人の伯父伯母と同居し3人を看取り、また3人の息子(長男:俳優の芥川 比呂志ひろし 、次男:画文の才能を発揮しつつも戦死した芥川 多加志たかし 、三男:作曲家の芥川 也寸志やすし を育て上げた。 芥川のおよそ2倍生き、昭和43年、68歳で死去。

芥川龍之介
・ 「芥川の短篇小説のいくつかは、古典として日本文学に立派に残るものである。・・・(中略)・・・『 手巾 はんかち 』は短編小説の極意である」(三島由紀夫

・ 「平常から一たいに他人に悪く思はれたくない男」(室生犀星小説『青い猿』で、芥川がモデルと思しき人物をこのように評している)

・ 「彼は最初から完璧なマイナー・ポエットであることを目ざし、しかもそのことに成功した文学者だ」(丸谷才一)

関口安義『芥川龍之介 (岩波新書) 』 『芥川龍之介 (新潮日本文学アルバム)』
関口安義『芥川龍之介 (岩波新書) 』 芥川龍之介 (新潮日本文学アルバム)』

芥川龍之介と馬込文学圏

東京府立第三中に入学した年(明治38年 芥川13歳)、大森、川崎方面の遠足で当地を訪れた。池上本門寺、新田神社(現・東京都大田区矢口一丁目)、矢口の渡し(現・同・矢口三丁目)などを巡り、「修学旅行の記」を残す。

当地(東京都大田区)には、芥川がいた東京田端から流れてきた萩原朔太郎室生犀星、「赤い鳥」 つながりの北原白秋、憧れの片山広子らが住んでおり、何度か訪れた。

作家別馬込文学圏地図 「芥川龍之介」→


参考文献・参考サイト

● 『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』 (昭和58年初版発行 昭和58年2刷参照) P.12-38、P.106、P.82-90、P.105-106 ● 『馬込文学地図』 (近藤富枝 講談社 昭和51年発行) P.178-188 ● 『座談会 昭和文学史 (一)』  (井上ひさし・小森陽一 編著  集英社 平成15年発行) ※ 第2章「谷崎潤一郎芥川龍之介」 ● 『昭和文学作家史』 (毎日新聞社 昭和52年発行) P.77、P.87-91 ●『倉田百三(増補版)』(鈴木範久 大明堂 昭和55年発行)P.28-31 ● 『眼中の人』(小島政二郎 文京書房 昭和50年発行) P.326 ● 『文学者たちの軽井沢(上)』 (吉村裕美 軽井沢新聞社 平成21年発行) P.48-51、P.79-81 ● 『三島由紀夫評論全集(第一巻)』(新潮社 平成元年発行) P.68-70 ● 『断髪のモダンガール(文春文庫)』(森 まゆみ 平成22年発行) P.90 ● 『芥川龍之介全集 2』 (筑摩書房 昭和39年初版発行 昭和41年7版参照) P.119-125  ● 『物語の娘 ~宗 瑛を探して~』(川村 湊 講談社 平成17年発行) P.52-65

馬込文士村ガイドの会/室生犀星・片山広子と軽井沢→
芥川龍之介文学散歩→
Storia‐異人列伝/龍之介、完璧なマイナー・ポエット ― 丸谷才一→

※当ページの最終修正年月日
2019.1.8

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