●『色ざんげ』・・・宇野千代(うの・ちよ)36歳の時の作品。昭和8年〜10年「中央公論」に連載された。東郷青児から聞いた話を元に、「聞き書き体」で書かれている。小説の主人公は、東郷がモデルなのであろう。舞台として、「大森の山の手」(馬込文学圏の一部)も出てくる。英語、米語、フランス語にも翻訳された。
ヨーロッパ帰りの新進の画家 湯浅の前に、高尾が現れる。あまり美しくもない傲慢の固まりのような女性だが、彼女が湯浅をモノにするやり方が滅茶苦茶面白い。世に言う“ストーカー”などぶっ飛んでしまうストーカーぶりで、お見事というしかない。
それで、高尾との恋愛(?)はドタバタで終わるからいいようなもので、次に現れる高尾の友だちのつゆ子という女性との出会いは、湯浅にとって決定的だ。妻子ある湯浅だったが、つゆ子に対して抱く強烈な恋情は、生まれて初めて体験するほどのものだった。つゆ子も同じで、二人は相思相愛。めでたし、めでたし!
・・・とはいかない。湯浅は冷え切った関係にあったとはいえ妻子ある身なのだ。妻だってだまってはいないし、それに湯浅は画家というちょっと訳がわからないお仕事。お堅い家柄のつゆ子の周囲がそんな湯浅を認める訳もなく、しばらくして二人は強引に引き離されてしまう。つゆ子は家の者の手でどこかに隠されてしまうのだ。
それからの湯浅が大変だ。狂ったようになってつゆ子を探し始める。先の高尾のストーカー度を遥かに凌ぐストーカーと化してゆく。つゆ子の家の前のアパートに部屋を借りてつゆ子の姿を探すあたりは、ドキドキものだ。かなりヤバい。
とこんな感じ。宇野はこの小説についてズバリ「私の書いたものの中で、一番面白い」と書いている。むべなるかな。
でも一つ注意したいのは、“愛”はほんと恐いですので。
『色ざんげ』を読むには
『色ざんげ』(中央公論社 昭和10年)
『色ざんげ』(文体社 昭和21年)
『新潮文庫
色ざんげ』(新潮社 昭和24年)
『河出文庫
色ざんげ』(河出書房 昭和30年)
『角川文庫
色ざんげ』(角川書店 昭和30年)
『潮文庫
色ざんげ』(潮出版社 昭和48年)
『色ざんげ』(中央公論社 昭和59年)
などで読むことができる。多くの図書館に所蔵されていると思う。
宇野千代について
遊び人の父と、母の早世
明治30(1997)年11月28日、山口県岩国市で生まれる。父親は根っからの遊び人。母親は千代が生まれた翌々年に死去した。3人の弟と1人の妹は継母が産んだ子である。千代は弟妹の面倒をよくみた。明治43年(13歳)、父親の命令で従兄弟の藤村亮一と結婚させられるが、10日で逃げ帰る。
文学との出会い
大正3年(17歳)、隣村の小学校の代用教員になり自活する。母親に仕送りできるのが千代の大きな喜びだったという。その頃から「青鞜」などの雑誌を読むようになり、投稿もはじめる。
翌年、同僚との恋愛を理由に職場を追われ、朝鮮の京城に渡り、翌年帰国。帰国後は従兄弟の藤村
忠(藤村亮一の弟)を頼って、彼と一緒に京都・東京・北海道と移動した。大正8年(21歳)、忠と結婚。東京本郷のレストラン燕楽軒(えんらくけん)でウエイトレスをしている頃、瀧田樗陰、芥川龍之介、今東光、久米正雄らを知る。美貌の千代は「本郷のクイーン」と呼ばれ、芥川龍之介の『葱』のモデルにもなっている。
八面六臂の活躍
大正10年(24歳)、「時事新報」の懸賞小説で『脂粉の顔(しふんのかお)』が一等になり、その後「中央公論」に『墓を発く(はかをあばく)』などを発表。
尾崎士郎や東郷青児との同棲を経て、昭和11年(39歳)スタイル社を興して日本初のおしゃれ雑誌「スタイル」を、昭和13年(41歳)には文芸誌「文体」を創刊する。昭和17年(45歳)、『人形師天狗屋久吉』を発表。「聞き書き体」「語り掛け体」といわれる文体に磨きがかかる。
終戦後の昭和21年(49歳)、スタイル社を再建して「スタイル」を復刊、時代の雰囲気に迎えられて爆発的に売れる。翌年、「文体」も復刊。そして、千代の代表作『おはん』の連載が始まった。
昭和26年(54歳)、宮田文子とヨーロッパを旅行。パリの街を着物で闊歩して注目された。着物に関心を深め、昭和32年(60歳)、アメリカのシアトルで着物の国際ショーも催している。
晩年もはつらつ、多くの人に生きる指針を与える
昭和46年(74歳)から、「新潮」に『桜』を連載。昭和57年(1982年
85歳)から、『生きていく私』を毎日新聞に連載、翌年2巻になって刊行された。これは100万部を越えるベストセラーとなった。
平成8(1996)年6月10日、98歳で死去。納骨の直前、一匹の白い蝶が遺骨に止まり、そして悠然と飛び立っていく。その様を見て参会者は息を飲んだという。墓所は、岩国市の教蓮寺(
)。
宇野千代の馬込文学圏時代
尾崎士郎と馬込で暮らし始めたのが大正12年(26歳)。「時事新報」の懸賞小説の一等(宇野千代)と二等(尾崎士郎)を、室伏高信が引き合わせたのが二人の出会いである。宇野千代は、ドモリ癖のある飾り気のない好男子の尾崎士郎に一目惚れ、その晩、尾崎について彼の宿まで行き、そのまま同棲となった。しばらくして二人は大田区新井宿の下宿「寿館」に移り、その後、上泉秀信の紹介で南馬込移動、農家の納屋をバンガロー風に改造して住んだ。そこは「愛の巣」「馬込放送局」などとも呼ばれ、連日連夜、酒客で賑わった。宇野は甲斐甲斐しくも酒を買いに走っていたという。
酒客のもてなしの他にも盛んに社交し、宇野は、萩原朔太郎夫妻が催すダンスパーティーの常連にもなり、また広津和郎らとの麻雀にも熱を入れた。湯ヶ島通いがはじまってからは、「青空」の同人の梶井基次郎・三好達治らとの交友も深まる。吉屋信子とも交流があった。尾崎が南馬込に連れてきた牧野信一とも親しくなった。
宇野は率先して新しいファッションを取り入れ、断髪して、洋装。馬込の他の夫人にすすめて回ったという。
宇野が籍を入れていた藤村 忠とは大正13年に正式に離婚する。昭和5年(33歳)、宇野と梶井基次郎の仲が噂され、尾崎とも離婚に到る。東京都世田谷の東郷青児の元に行き、馬込を去る。

宇野千代が住んだ南馬込4丁目の夕暮れ。宇野が住んだ頃は、一面大根畑だったという。 |
参考文献
●『新潮日本文学アルバム 宇野千代』
(新潮社 平成5年)
●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』
(大田区立郷土博物館編 平成8年)P.6-10
●『文壇資料 馬込文学地図』
(近藤富枝 講談社 昭和51年)
●大田区史研究『史誌 32』 「馬込文士村の作家たち」
(東京都大田区 平成2年)
参考サイト
●
松岡正剛の千夜千冊/『生きて行く私』宇野千代→
●東京紅団/宇野千代の東京を歩く→
●岩国市議会議員 渡
吉弘→
※マイエッセイ「薄墨桜忌」で宇野千代について触れています
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2008.2.16
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