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Japanese version only. |
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| 宇野千代の『色ざんげ』を読む
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| 宇野千代の 『色ざんげ』 |
宇野千代36歳の時の作品。 『罌粟(けし)はなぜ紅い』 のガス中毒死の場面について東郷青児に取材しにいった宇野は、そのまま東郷と同棲を始める。その後、東郷から聞いた話を元に 『色ざんげ』 は書かれた。宇野が得意な 「聞き書き体」だ。
昭和8年〜10年 「中央公論」 に連載され、昭和10年、中央公論社で単行本化。文体社(昭和21年) 、中央公論社(昭和59年 新装版) からも出ている。文庫本には、新潮社版(昭和24年) 、河出書房版(昭和30年) 、角川書店版(昭和30年) 、潮出版版(昭和48年) がある。英訳、米語訳、フランス語訳もあり。
舞台として、馬込文学圏 (「大森の山の手」) も登場。山王2丁目あたりか。
■ 作品評
・ 私の書いたものの中で、一番面白い (宇野千代)
・ 俺が見ては悪い様な本 (尾崎士郎)
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| 宇野千代 ※馬込文士村レリーフより |
遊び人の父と、早世した母
明治30(1897)年11月28日、山口県岩国市で生まれる。父親は根っからの遊び人。母親は千代が生まれた翌々年に死去している。3人の弟と1人の妹は継母が産んだ子で、千代は彼らの面倒をよくみた。明治43年(13歳)、父親の命令で従兄弟の藤村亮一と結婚するが、10日で逃げ帰る。
文学との出会い
大正3年(17歳)、隣村の小学校の代用教員になり自活。母親(継母)に仕送りできるのが大きな喜びだった。この頃から 「青鞜」 などを読み、投稿を始める。
翌年、同僚との恋愛が発覚し、職場を追われ、京城(現・ソウル)に渡るが、翌年帰国。従兄弟の藤村忠 (藤村亮一の弟) の帝大法学部入学に伴って上京。燕楽軒で給仕をしている頃、瀧田樗陰、芥川龍之介、今東光、久米正雄らを知る。 「本郷のクイーン」 と呼ばれ、芥川龍之介の 『葱』 (※1)のモデルになった。大正8年(21歳)、忠と結婚し、札幌に住む。
※1 : 『葱』
芥川龍之介の大正8年の作品。レストランで働くおすましな文学少女が、初デートで、とんでもなく庶民的な行動に出るユーモア小説。主人公の少女は女髪結いの店の2階に住んでおり、その頃の千代と共通点が多い。
八面六臂の活躍
大正10年(24歳)、「時事新報」の懸賞小説で 『脂粉(しふん)の顔)』 が一等になり、その後 「中央公論」 に 『墓を発く(あばく)』 を発表。 その頃、尾崎士郎、東郷青児と住んだ。昭和11年(39歳)スタイル社を興して日本初のおしゃれ雑誌 「スタイル」 を創刊。昭和13年(41歳)には文芸誌 「文体」 を創刊。昭和17年(45歳)、 『人形師天狗屋久吉』 を発表。その多くが「聞き書き体」 「語り掛け体」 という文体で書かれている。
終戦後の昭和21年(49歳)、スタイル社を再建して 「スタイル」 を復刊、時代の雰囲気に迎えられて爆発的に売れた。翌年、「文体」 も復刊。同誌で、千代の代表作 『おはん』 の連載が始まる。昭和26年(54歳)、宮田文子とヨーロッパを旅行。パリの街を着物で闊歩して注目された。昭和32年(60歳)、シアトルで着物の国際ショーを開催。
晩年もはつらつ、多くの人に元気を与える
昭和46年(74歳)から、「新潮」 に 『桜』 を連載。昭和57年(85歳)から、 『生きて行く私』 を毎日新聞に連載、翌年2巻になって刊行され、100万部を越えるベストセラーになった。 「陰気は悪徳、陽気は美徳」「何だか私、死なないような気がするんですよ。はははは」 「恋愛はスピードが大切なのよ」 と名言をはき、多くの人に元気を与えた。
平成8年6月10日、満98歳で死去。納骨の直前、一匹の白い蝶が骨壺に止まり、そして悠然と飛び立っていったという。墓所は、岩国市の教蓮寺( )。
大正11年(25歳)、「時事新報」 の懸賞小説で一等だった千代と二等だった尾崎士郎とを、室伏高信(30歳)が引き合わせた。千代はドモリで飾り気のない好男子の尾崎に一目惚れ。その晩から、尾崎が宿泊していた菊富士ホテルで同棲するようになった。尾崎と馬込文学圏で暮らし始めるのは翌大正12年の5月(25歳)。最初、新井宿の下宿屋 「寿館」 に住むが、後に上泉秀信(26歳)の紹介で南馬込(南馬込4-28-11。現在も宇野の表札がある)へ移動、農家の納屋をバンガロー風に改造して住んだ。そこは 「愛の巣」 「馬込放送局」 と呼ばれ、 連日連夜、酒客(※2)で賑わった。宇野は彼らのために酒を買いに走った。同年9月1日、関東大震災。千代は、郵便局(※3)から出るときに被災。家は無事だったが、朝鮮人の暴動があるとのデマが流布し、二人は天井裏に隠れた。
※2:酒客
今井達夫(19歳)、藤浦洸(25歳)、秋田忠義、榊山潤(23歳)、間宮茂輔(24歳)、吉田甲子太郎(29歳)、室伏高信(31歳)、上泉秀信(26歳)など。
※3 : 郵便局
『生きて行く私』 に 「大森駅の近くにある郵便局」 とある。おそらく大田山王局だろう。戦前からほぼ今と同じ位置にあった。
大正13年(27歳)、吉屋信子も馬込文学圏入り、仲良くなる。大正14年(28歳)、衣巻省三(27歳)が馬込文学圏入りして自宅でダンスパーティーを催すようになると常連になる(※4)。大正15年、馬込文学圏入りした広津和郎(35歳)が広めた麻雀にも熱を入れる。
※4:ダンスパーティーは後に萩原朔太郎邸でも催されるようになる。
昭和2年(30歳)から湯ヶ島通いを始め、「青空」 の同人の梶井基次郎(26歳)、三好達治(27歳)らと交友。尾崎が南馬込に連れてきた牧野信一(31歳)とも親しくなる。
千代は断髪・洋装といった新しいファッションも積極的に取り入れ、その影響で、萩原朔太郎夫人の稲子、川端康成夫人が断髪した(※5)。後に稲子夫人がダンス仲間の青年と出奔したのは千代の影響だと、萩原の友人の室生犀星は晩年まで千代を敵視した
※5:弁天池 (山王4丁目) 脇の丘陵(木原山)に美容室 「メイ牛山」があった。
籍を入れていた藤村忠とは大正13年(27歳)に正式に離婚。昭和5年(33歳)、梶井基次郎との仲が噂され、尾崎とも離婚に到る。しばらくは大森海岸のアパート(品川区大井町鈴ヶ森の 「ポプラの家(ポプラハウス)」 )で一人暮らしし、後に東京都世田谷の東郷青児(33歳)と同棲。
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| 千代が尾崎士郎と住んだ南馬込4丁目辺り。当時は一面大根畑だった。 |
・ 新潮日本文学アルバム 『宇野千代』(Amazonで詳細を見る→)
(新潮社 平成5年)
・ 中公文庫 『生きて行く私』(Amazonで詳細を見る→)
(宇野千代 中央公論社 平成4年) P.126
・ 『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』
(東京都大田区立郷土博物館編・発行 平成8年)P.6-10
・ 『昔日の客』(Amazonで詳細を見る→)
(関口良雄 三茶書房) P.124
・ 『文壇資料 馬込文学地図』(Amazonで詳細を見る→)
(近藤富枝 講談社 昭和51年)
・ 「大森区詳細図」(日本統制地図株式会社 昭和17年)
・ 損保ジャパン東郷青児美術館→
※ 『色ざんげ』 の湯浅のモデルになった東郷青児の作品を多数所蔵。
昭和8年作 『黒い手袋』 は宇野千代がモデルといわれている。
・Chain reaction of curiosity/小説「色ざんげ」に見る昭和初期の女性のこと→
・golbケイコヤオナ/宇野千代論14 暴かれる矛盾‐「色ざんげ」小論→
※当ページの最終修正年月日
2012.2.6