ヨーロッパ帰りの新進画家 ・湯浅の前に、高尾が現れる。高尾は美しくない傲慢の固まりのような女性だが、湯浅をモノにするやり方がむちゃくちゃユニークだ。

それで、高尾との恋愛(?)はドタバタで終わるからいいようなもので、次に現れるつゆ子という女性との出会いは、湯浅にとって決定的だった。妻子ある湯浅だったが、つゆ子に対して抱く恋情は、生まれて初めて体験するほど強烈で、つゆ子も湯浅に対してなみなみならぬ感情を持っていく。

しかし、湯浅には、冷え切った関係にあったとはいえ妻子がある。妻だってだまってはいない。それに、つゆ子の周囲が、そんな湯浅を認める訳もなく、しばらくして、つゆ子は家の者の手でどこかに隠されてしまうのだった。

それからの湯浅が大変だ。高尾が湯浅に対してそうだったように、こんどは湯浅が狂う。狂ったようになって、湯浅はつゆ子のことを探し始めるのだった。つゆ子の家の前のアパートに部屋を借りてつゆ子の姿を探ったり、居場所を突き止めたら、なりふり構わず命がけで探しにいく。かなりヤバい。

そして、湯浅とつゆ子は、亡者のようになって、愛の深みへとどっぷりとはまっていく。そして、その先にあるものは・・・

色ざんげ

“愛”は、ほんとに恐いです。


『色ざんげ』について

宇野千代36歳の時の作品。『罌粟(けし)はなぜ紅い』のガス中毒死の場面について東郷青児に取材しにいった宇野は、そのまま東郷と同棲を始める。その後、東郷から聞いた話を元に『色ざんげ』は書かれた。この執筆を通して宇野は「聞き書き体」という小説作法を身につけたという。

昭和8年〜10年「中央公論」に連載され、昭和10年、中央公論社で単行本化。文体社(昭和21年)、中央公論社(昭和59年 新装版)からも出ている。文庫本は、新潮社版(昭和24年)、河出書房版(昭和30年)、角川書店版(昭和30年)、潮出版版(昭和48年)がある。英訳、米語訳、フランス語訳もあり。

舞台として、馬込文学圏とおぼしき「大森の山の手」も登場。山王2丁目あたりか。

色ざんげ

●『色ざんげ』の感想
・私の書いたものの中で、一番面白い(宇野千代
・俺が見ては悪い様な本(尾崎士郎


宇野千代について

遊び人の父と、母の早世
明治3011月28日、山口県岩国市で生まれる。父親は根っからの遊び人。母親は千代が生まれた翌々年に死去している。3人の弟と1人の妹は継母が産んだ子で、千代は彼らの面倒をよくみた。明治43年(13歳)、父親の命令で従兄弟の藤村亮一と結婚させられるが、10日で逃げ帰る。

文学との出会い
大正3年(17歳)、隣村の小学校の代用教員になり自活する。母親(継母)に仕送りできるのが大きな喜びだった。この頃から「青鞜」などを読み、投稿もはじめる。
翌年、同僚との恋愛し職場を追われ、京城(※1)に渡るが、翌年帰国。帰国後は従兄弟の藤村 忠(藤村亮一の弟)を頼って、彼と一緒に京都・東京・北海道と移動した。大正8年(21歳)、忠と結婚。 燕楽軒で給仕をしている頃、瀧田樗陰芥川龍之介今東光久米正雄らを知る。千代は「本郷のクイーン」と呼ばれ、芥川龍之介の『葱』(※2)のモデルになった。

八面六臂の活躍
大正10年(24歳)、「時事新報」の懸賞小説で『脂粉(しふん)の顔)』が一等になり、その後「中央公論」に『墓を発く(あばく)』を発表。 尾崎士郎東郷青児との同棲を経て、昭和11年(39歳)スタイル社を興して日本初のおしゃれ雑誌「スタイル」を創刊。昭和13年(41歳)には文芸誌「文体」も創刊した。昭和17年(45歳)、『人形師天狗屋久吉』を発表。「聞き書き体」「語り掛け体」といわれる文体に磨きがかかる。

終戦後の昭和21年(49歳)、スタイル社を再建して「スタイル」を復刊、時代の雰囲気に迎えられて爆発的に売れる。翌年、「文体」も復刊。同誌で、千代の代表作『おはん』の連載が始まる。昭和26年(54歳)、宮田文子とヨーロッパを旅行。パリの街を着物で闊歩して注目された。昭和32年(60歳)、シアトルで着物の国際ショーも催している。

晩年もはつらつ、多くの人に生きる指針を与える
昭和46年(74歳)から、「新潮」に『桜』を連載。昭和57年(85歳)から、『生きていく私』を毎日新聞に連載、翌年2巻になって刊行され、100万部を越えるベストセラーになった。 「陰気は悪徳、陽気は美徳」「何だか私、死なないような気がするんですよ。はははは」 「恋愛はスピードが大切なのよ」 と名言をはき、多くの人に生きる元気を与えた。

平成8年6月10日、満98歳で死去。納骨の直前、一匹の白い蝶が骨壺に止まり、そして悠然と飛び立っていったという。墓所は、岩国市の教蓮寺( )。


宇野千代と馬込文学圏

大正11年(25歳)、「時事新報」の懸賞小説の一等だった千代と二等だった尾崎士郎を、室伏高信が引き合わせた。千代はドモリ癖のある飾り気のない好男子の尾崎に一目惚れ。その晩、尾崎の止宿先の菊富士ホテルまで行き、そのまま同棲となった。尾崎と馬込文学圏で暮らし始めるのは大正12年5月(25歳)。新井宿の下宿屋「寿館」から、上泉秀信の紹介で南馬込(南馬込4-28-11。現在も宇野の表札がある)へ移動、農家の納屋をバンガロー風に改造して住んだ。そこは「愛の巣」「馬込放送局」と呼ばれ、連日連夜、酒客(今井達夫藤浦 洸秋田忠義榊山 潤間宮茂輔吉田甲子太郎室伏高信上泉秀信など)で賑わった。宇野は甲斐甲斐しくも酒を買いに走ったという。大正12年といえば関東大震災のあった年で、千代は、郵便局から出るときに被災(※3)。南馬込の家は無事だったが、朝鮮人の暴動があるとのデマが流れ、二人は天井裏に隠れた。

大正13年(27歳)、吉屋信子が馬込文学圏入り、行き来する。大正14年(28歳)、衣巻省三が馬込文学圏入りしてダンスを広めると、衣巻邸で催されるダンスパーティー(後に萩原朔太郎邸)の常連になった。大正15年、馬込文学圏入りした広津和郎が広めた麻雀にも熱を入れる。

昭和2年(30歳)から湯ヶ島通いを始め、「青空」の同人の梶井基次郎三好達治らと交友。尾崎が南馬込に連れてきた牧野信一とも親しくなった。

千代は断髪・洋装といった新しいファッションを積極的に取り入れ、馬込文学圏の他の夫人にもすすめた。その影響で萩原朔太郎夫人の稲子川端康成夫人が断髪した。後に稲子夫人がダンス仲間の青年と出奔したのは千代影響だと、萩原の友人室生犀星は晩年まで千代を敵対視したという。断髪した床屋は、弁天池(山王4丁目)の上にあった「メイ牛山」。

籍を入れていた藤村 忠とは大正13年(27歳)に正式に離婚。昭和5年(33歳)梶井基次郎の仲が噂され、尾崎とも離婚(※4)に到る。大森海岸のアパートでしばらく一人暮らしし、後に東京都世田谷の東郷青児と同棲するようになった。

作家別馬込文学圏地図「宇野千代」→

千代が住んだ南馬込4丁目の夕暮れ。千代が住んだ頃は、一面大根畑だった。

※1:京城
けいじょう。大韓民国の現在のソウル。日本の占領下に京城と呼ばれた。日本人も多く住み、「京城三越」などもあった。

※2:『葱』
芥川龍之介の大正8年の作品。レストランで働くおすましな文学少女が、初デートで、とんでもなく庶民的な行動をとる、といったユーモア小説。主人公の少女は女髪結いの店の2階に住んでおり、その頃の千代と共通点が多い。

※3:郵便局
現在の位置に大森郵便局を確認できるのは、昭和15年頃の地図から。昭和10年の地図には記載されていない。大森郵便局は今は大きい郵便局だが当時は五等郵便局なので記載されていないのかもしれない。または、千代が被災したという郵便局は、臼田坂を降りきった先にあった新井宿局(現、中央2丁目)かもしれない。

※3:
千代にとっては泣く泣くの離婚だったようだ。別れの日、台所で使うための用具を尾崎に届けている。


参考文献

・『新潮日本文学アルバム 宇野千代
 (新潮社 平成5年)

・『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』
 (東京都大田区立郷土博物館編 平成8年)P.6-10

・『昔日の客』
  (関口良雄 三茶書房)P.124

・『文壇資料 馬込文学地図』
 (近藤富枝 講談社 昭和51年)

・大田区史研究『史誌 32』
 「馬込文士村の作家たち」
 (東京都大田区 平成2年)


参考サイト

損保ジャパン東郷青児美術館→
※『色ざんげ』のモデルになった東郷青児の作品を多数所蔵。昭和8年作『黒い手袋』は宇野千代がモデルといわれている。

松岡正剛の千夜千冊/『生きて行く私』宇野千代→

ウィキペディア/宇野千代→

東京紅団/宇野千代の東京を歩く→

岩国市議会議員 渡吉弘/薄墨桜忌→

ウィキペディア/大森郵便局→


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※当ページの最終修正年月日
2009.5.9