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三島由紀夫の『豊饒の海』を読む
至福の読書

 

 

 

 

 

 

 

 

馬込文学圏に住むようになって数ヶ月した頃、三島由紀夫の家がまだ残っていることを知った。 住所を調べたら、私のアパートからとても近い。 近くに彼が住むような家があっただろうか? ある夏の夕方、近所の地図を片手に、 三島邸探しに出かけた。

ふだん曲がらない道を一つ曲がれば、近所でも “見知らぬ土地”だ 。 角を2度曲っただけで、ここが近所?と信じられない高級感漂う一角に出た。 白い大きな家が目に飛び込んできた。 案の定、表札には 「三島由紀夫」 とある。

門の前に立っているだけでなにやら恐れ多い。 三島由紀夫というとどうしても、あの壮絶な最期が思い起こされるのだ。 でも、にわかには立ち去ることもできない。 閉ざされた門の内側の壁には焼き物の絵がはめ込まれてあり、その上の常緑樹の茂みに目を凝らすと白い彫像の肌がわずかに見える。

そのとき、バイオリンケースを抱えた少女が近くに立っていたように記憶するが、あれは現実だったか? 夏の夕焼けが三島邸の白い外壁を赤く染めていた。

三島邸がとても近くにあるのを知って、俄然、興味が湧いてきた。彼は、あの家でどんな小説を書いたのだろう? 高校生の頃、彼の 『仮面の告白』 や 『金閣寺』 に挑戦したが、どちらも読み通すことができなかった。 読書に関してまったく集中力と根性を欠いていたのだ。 でも、今だったら、大丈夫かもしれない。 彼の何かスゴいのを読んでみたい。

そして、見つけたのが 『豊饒の海』 だ。

4巻からなる長編だ。 4巻目を書き終えた日に、三島は死ぬ場所へ向かったという。 これを読めば、なぜ彼があのようなことをしたか少しは分かるかもしれない。

それからの数ヶ月は、 『豊饒の海』 を読むのが日課になった。 難しい箇所もたくさんあって、理解できたとは到底言えない。でも、文章からイメージされる情景は切なくなるほどに美しかった。

我がアパートから三島邸が見えることにも気がついた。 晴れた日にはベランダに椅子を出して 『豊饒の海』 をひも解く。 そして読み疲れたら左手にのぞいている三島邸の屋根を眺める。 著者を身近に感じながらする読書は楽しいものだ。

この至福の読書体験が、この「馬込文学マラソン」というサイトを始めるきっかけになった。


『豊饒の海』 について

三島由紀夫の『豊饒の海』

三島由紀夫が最期の6年間に書いた小説。昭和42年1月から 「新潮」 に連載され、順次刊行された。 『春の雪』 『奔馬』 『暁の寺』 『天人五衰てんにんのごすい 』 の4巻からなる。

平安後期に菅原孝標女が書いたとされる超常的な小説 『浜松中納言物語』 にヒントを得て書かれた※1。 冒頭から登場する 松枝清顕まつがえ・きよあき という青年は1巻目の終わりで死ぬが、以下の巻で、友人の近辺に全く違った3つの姿になって転生して現れる。 清顕を含めたこの4人(4つの姿)は、それぞれが三島の異なった美意識を表しているのだろう。

装丁は村上芳正。 各巻異なる色の絹で覆われている。 『天人五衰』 のカバー絵は瑶子夫人が描いた。 この巻だけ三島の死後の出版だ。万感の思いをこめたに違いない。


三島由紀夫について

三島由紀夫

三島由紀夫 ※この写真の著作権の保護期間は満了しています 。出典:ウィキペディア/三島由紀夫→

天才肌
大正14(1925)年※21月14日、東京四谷で生まれる。 本名は 平岡公威ひらおか・きみたけ。 祖母に溺愛されて育つ。 学習院初等科に入学。 昭和13年(13歳)、脱獄囚と少年の交歓を描いた 『酸模すかんぽう 』 を学内雑誌に発表し才能を示す。 昭和16年(16歳)、 『花ざかりの森』 が清水文雄の推薦で 「文芸文化」 に掲載され、蓮田善明が高く評価した。 この時から 「三島由紀夫」 と名のる。 昭和20年(20歳)、召集令状がきて遺書を書くが、入隊検査で肺結核と診断され、入隊にいたらなかった。

特異な作風
昭和21年(21歳)、鎌倉の川端康成(46歳)を訪問。 持参した 『煙草』 が認められ 「人間」 に掲載された。 昭和22年(22歳)、東大法学部卒業後大蔵省に入るが、執筆との両立に苦しみ、翌年退職、執筆に専念する。 自伝的小説 『仮面の告白』 (昭和24年)、学生金融会社・光クラブの山崎晃嗣をモデルにした 『青の時代』 を書く。 理知的で妖しさが漂う作風が評判になる。

昭和26年(26歳)から翌年にかけて世界旅行し、太平洋のぎらつく太陽とリオ・デジャネイロの祝祭的空気、ギリシャ文明の肉体賛美を通して、 知識に蝕まれた自身のひ弱な肉体を発見、露悪的な “弱者の文学” を嫌悪し、自己鍛錬に向かう。 昭和29年、 『潮騒』 を執筆。翌年からボディービルを始めた。 自身の同性愛的傾向を表現するようになるのもこの頃から。

昭和31年(31歳)、金閣寺放火事件を題材にした 『金閣寺』 を脱稿。 世界的に注目され、2度ノーベル文学賞の候補になる。

昭和27年(27歳)、 『卒塔婆小町』( 『近代能楽集』 の1つ) が長岡輝子の目にとまり、文学座に戯曲を提供するようになった。

馬込文学圏に越してきた頃に書いた 『鏡子の家』 (昭和33年 33歳)は、平野謙山本健吉臼井吉見らから酷評された。 この頃から、映画に出たり、写真の被写体になったり、レコードを作ったり、執筆以外のことも盛んにするようになる。 生真面目に文学にだけかじりついているのがアホらしくなったのだろうか。

政治への傾斜
昭和36年(36歳)、自薦の一作 『憂国』 を書く。 その他、モデルの有田八郎元外相からプライバシー侵害で訴えられた 『宴のあと』 、空飛ぶ円盤を題材にした 『美しき星』 、電車転覆事件をモチーフにした戯曲 『喜びの琴』 など、問題作を次々に書いた。 『喜びの琴』 は文学座内で 「左翼への偏見あり」 と批判され、三島が文学座を離れるきっかけになった。 『絹と明察』『サド侯爵夫人』 『英霊の聲』 を発表。 昭和42年(42歳)から自衛隊へ体験入隊するようになり、翌年、私的軍隊 「盾の会」 を結成、米国依存から脱することを訴えた。 同年、 『文化防衛論』 『わが友ヒットラー』 を上梓。 昭和44年(44歳)、駒場の東大教養学部で全共闘の幹部学生と討論した。

昭和45(1970)年11月25日、 『豊饒の海』 を脱稿。 同日、森田必勝ら 「盾の会」 の会員4名と東京市ヶ谷の自衛隊駐屯地に行き、総監を縛って脅した上、自衛隊隊員への演説を強行。 「歴史と伝統の国、日本」 への誇りを覚醒するよう訴えたあと、武士のように切腹して果てた。 満45歳。墓所は多磨霊園( )。

■ 人物評
・ 「オレは、三島由紀夫が死んでショック受けたってより、ケンカ売られたって感じだね、あんなイヤな野郎、世の中にいないね。」(深沢七郎)


三島由紀夫と馬込文学圏

結婚後1年した昭和34年(34歳)、長岡輝子(51歳)が彼女の家から歩いて1分ほどのところに見つけた敷地(南馬込4丁目)に 「悪者が住むような家※3」 を建て、越してきた。 自らトラックの上に乗って荷物を運び、近隣への挨拶にも回った。

三島邸ではしばしばパーティーが催され「大森鹿鳴館」 と呼ばれた。 来訪者は、横尾忠則森茉莉、三輪明宏、大江健三郎ドナルド・キーン長岡輝子石原慎太郎 、澁澤龍彦 、浅利慶太 、北杜夫、阿川弘之、田宮二郎、村松英子、安部公房、堂本正樹、森田必勝徳岡孝夫、万代潔(民族派の雑誌 「論争ジャーナル」 編集部)※4など。

この家には昭和45年に自死するまでの11年間住み、 『鏡子の家』から 『豊饒の海』 までの作品は、主にここで書かれた。

三島邸からわずか数十歩のところに三島が私淑した稲垣足穂が居候した衣巻省三邸があった。 三島は知っていただろうか?

作家別馬込文学圏地図 「三島由紀夫」→



参考文献

・『三島由紀夫 研究年表』
 (安藤武 西田書店 昭和63年発行) P.181-183、P.257

・ 「世界文学における日本の “近代小説”」 (エドワード・G・サイデンステッカー
 ※ 『昭和文学作家史』 (毎日新聞社 昭和52年発行)所収

・ 『馬込文士村の作家たち』 (野村裕 自費出版 昭和59年発行) P.214-226

・ 『ARTのパワースポット』(横尾忠則 筑摩書房 平成13年発行) P.506-522

・ 『ふたりの夫からの贈りもの』
 (長岡輝子 草思社 昭和63年発行)口絵、P.243-244

・ 『五衰の人』(Amazonで詳細を見る→
 (徳岡孝夫 文藝春秋 平成8年初版発行 平成8年2刷参照) P.176-177

・ 『三島由紀夫の家』
 (篠田達美 篠山紀信 美術出版社 平成7年発行) P.204


参考サイト

ウィキペディア/三島由紀夫→
三島由紀夫文学館→
甘口辛口/深沢七郎の人間滅亡教(その1)→
松岡正剛の千夜千冊/1022夜 『絹と明察』 三島由紀夫→
四国の山なみ/三島由紀夫割腹余話→


脚注

※1 : 三島は学習院高等科で、『浜松中納言物語』の末巻(第五巻)を復元した松尾聡に国文法と古典を教わっている

※2 : 大正14年生まれは、大正15年(昭和元年)には満1歳、昭和2年には満2歳、昭和3年には満3歳・・・となり、昭和の年数と年齢が一致する

※3 : 17〜18世紀、欧米諸国が植民地に建てた、ポーチ、大きな窓、バルコニーを特徴とするビクトリア朝時代のコロニアル様式を持つ家。 三島は設計者の 鉾之原捷夫 ほこのはら・としお に「西部劇に出てくる成り上がりのコールマン髭を生やした金持ちの悪者」が住むような家にしてくれと頼んだ。三島はこの家で、ロココ調の家具に囲まれて、アロハ・シャツにジーパンで過ごそうと思ったとか。三島のイロニカルでかつ複雑な趣味が表現されているといえよう

※4 : 昭和41年12月19日、「論争ジャーナル」 の創刊が準備される中、林房雄の紹介で来訪。 党派に属さない青年たちが左傾した日本を必死に正そうとしているのを知って三島は感動、同誌に寄稿するようになる。 民兵組織 「楯の会」 の構想は、万代らからの影響があったと見られている。 万代に会った4ヶ月後の昭和42年4月から三島は自衛隊に体験入隊するようになる。 「楯の会」 の結成は2年後の昭和43年10月


※当ページの最終修正年月日
2014.526

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