●『月に吠える』・・・萩原朔太郎(はぎわら・さくたろう)の初の詩集。大正6年2月15日、感情詩社と白日社から共同出版された。従兄弟の萩原栄次に捧げられている。発売直前に発売禁止の知らせがあり、急遽、「愛隣」と「戀を戀する人」の2編が削除された。田中恭吉が口絵と挿絵を描いていたが作業半ばで病没、恩地孝四郎が後を継ぐ。この一冊で、萩原朔太郎の評価が定まった。


愛する人にたどり着けないような、大切なものを失ったような、ただただ漠然とした、病的なまでに怯えるような、また、神経がひりひり痛むような・・・、この『月に吠える』には、そんな哀しみがあふれている。

哀しみは、詩へと昇華され、そして、安らぎへの水脈を開くのか。夜のひと時、この詩集を開くと、ほの苦く、でも懐かしさでいっぱいになるのだ。

私どもは時々、不具な子供のやうないぢらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。そういふ時、ぴつたりと肩により添ひながら、ふるへる自分の心臓の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。その看護婦の乙女が詩である。(『月に吠える』序より)

朔太郎のいう“看護婦の乙女”は、自身の哀しみを知る人であろう。だから、人の哀しみにも寄り添うことができるのだ。朔太郎自身の魂といってもいい。

その眼差しに癒される。


『月に吠える』を読むには

『月に吠える』(感情詩社・白日社 大正6年)
『月に吠える』(※再版 アルス 大正11年)
『創元文庫 月に吠える』 (創元社 昭和27年)
『新潮文庫 月に吠える』(新潮社 昭和30年)
『角川文庫 月に吠える』(角川書店 昭和38年)
『月に吠える』(大和書房 昭和40年)
『月に吠える』(政治公論社 昭和43年)
『角川文庫 月に吠える』(※改版 角川書店 昭和44年)
『月に吠える』(感情詩社・白日社版復刻 ほるぷ 昭和51年)
『角川文庫 月に吠える』(角川書店 平成11年)
『月に吠える』(日本図書センター 平成11年)
『フロンティア文庫 月に吠える』(フロンティアニセン 平成17年)
などで読むことができる。その他、全集などにも所収されている。多くの図書館が、そのどれかを所蔵していると思う。


萩原朔太郎について

学業における挫折をバネにして
明治19(1986)年11月1日、群馬県前橋で生まれる。1日(朔日)生まれの長男なので、朔太郎と名づけられた。父親は東京大学医学部を主席で卒業するといった秀才で、前橋で医院をやっていた。
明治25年(6歳)、萩原家の書生として同居するようになった従兄弟の萩原栄次の影響で文学に興味を持つ。明治35年(16歳)、前橋中学校交友会誌に短歌を発表。以後、大正2年(27歳)まで、「明星」「」などに歌を発表し続けた。学業は、中学は5年進級時に落第、第五高等学校(熊本)は2年に進級できず、第六高等学校(岡山)に入り直すが2年になれぬまま退学、慶応義塾大学に入るが退学、京都大学を受けるが不合格で早稲田大学を目指すが受験手続きが遅れてダメになる。と、その時点で朔太郎はもう27歳である。学業における挫折がバネになり、文学に進む覚悟が定まったという。

最初の一冊で、詩壇の寵児に
大正2年(27歳)、北原白秋主宰の「朱欒」に「みちゆき」など5編の詩が掲載され、詩壇に登場。同じ号に掲載された「純情小曲集」に感動した朔太郎は、作者の室生犀星(朔太郎の3つ年下)に手紙を書く。二人の交流はこの時に始まった。そして、友情は終生続く。朔太郎も犀星も「白秋門下の三羽がらす」の一人となる(もう一人は大手拓次)。大正3年(28歳)、室生犀星と山村暮鳥と3人で人魚詩社を創設、「卓上噴水」を創刊する。10ヶ月間ほど、詩を書かないで音楽の研究やマンドリンクラブの設立に奔走する時期をへて、大正5年(30歳)、犀星と詩誌「感情」を創刊。翌大正6年(31歳)には第一詩集『月に吠える』を刊行した。新しい感覚の詩に与謝野晶子岩野泡鳴らの絶賛が集まり、この一冊で一躍詩壇の寵児となる。大正12年(37歳)、『青猫』を発行。昭和8年(48歳)、個人雑誌「生理」を創刊した。時代の流れかこの頃から日本への回帰が見られ、昭和12年(51歳)には、保田与重郎らの「日本浪漫派」の同人にもなっている。
昭和17(1942)年5月11日、肺炎のため死去する。56才だった。現在、前橋の政淳寺で眠っている( )。

長女は作家の萩原葉子で、葉子の子の萩原朔美氏は造形作家である(多摩美術大学教授)。


萩原朔太郎の馬込文学圏時代

大正14年(39歳)、前橋を出て大井町(東京都品川区)、田端(東京都北区)、鎌倉、と転々とした後、大正15年(40才)11月、馬込文学圏(南馬込3丁目)に来る。
彼の馬込文学圏時代は、ダンスにはまったり、妻と不和になったり、次女の明子が大病を患ったり、と波乱に満ちていた。仕事の上では、大正7年(33歳)から書きためた詩論を『詩の原理』という形で刊行したり(昭和3年 43歳)、朔太郎の後期を代表する詩集『氷島』に所収の作品を書いたりしている。昭和4年(43才)、妻が若い男と家を飛び出したのを機に、二人の娘を伴って前橋の実家に帰り、約3年間で、馬込文学圏住まいにピリオドを打った。

馬込文学圏では室生犀星と特に親しく行き来していた。犀星は朔太郎の誘いで馬込文学圏に来たのであった。朔太郎を慕って馬込文学圏入りした三好達治とも仲が良かった。芥川龍之介も朔太郎を訪ねて馬込文学圏に来ている。またこの頃、辻 潤と共同で雑誌を発行する計画があったので、彼も馬込文学圏の朔太郎を訪ねたことがあるのではないだろうか。

馬込文学圏・萩原朔太郎関係地図→

坂を愛した朔太郎。馬込の彼の家の前も緩やかな坂道になっていた。


参考文献

●『新潮日本文学アルバム 萩原朔太郎』
(1984年 2刷)

●『文壇資料 馬込文学地図』
(近藤富枝 昭和51年 講談社) P.57-80

●『馬込文士村の作家たち』
(野村 裕 昭和59年)P.138-146

●『馬込文士村ガイドブック(改訂板)』
(1996年 大田区立郷土博物館編)P.52-55

●角川文庫『月に吠える』
(昭和38年) ※解説

●『室生犀星 文学アルバム』
(大田区郷土博物館 平成4年)


参考サイト

萩原朔太郎研究所→

文学者掃苔録図書館>萩原朔太郎→

前橋文学館→


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※当ページの最終修正年月日
2007.10.1