足穂はやたら攻撃的だ。

足穂を世に出した佐藤春夫のことは悪人だからといって切り捨てたし、足穂にぞっこんだった三島由紀夫にも「(三島の創作には)ドキッとするものがないや」とそっけない。小林秀雄には「ニセ者」とレッテルを貼り、川端康成は「千代紙細工」、漱石鴎外さえも「書生文学」でしかなく、幸田露伴だって「学者」で、永井荷風は「三味線ひき」で、吉行淳之介安岡章太郎は「もたれ合いでマスをかいてる」、大江健三郎のことだって「自分のものは何にもない」とこき下ろした。足穂にかかると、大文学者も形無しだ。

足穂の攻撃は文学者に限らず、彼の身近な人たちにも向けられた。晩年の足穂と生活を共にした志代夫人などは特に酷い目にあったようだ。

また、この攻撃性は創作にも波及する。この『一千一秒物語』は彼が十代で書いたものだが、すでに彼の攻撃体質は顕著である。何とまあ、ここでの登場人物は、星や月にまで攻撃を仕掛けるのだった。

一千一秒物語

それでもって、攻撃された星や月はどうするかといえば、男の持ち物を隠したり、部屋に侵入して脅かしたり、突き飛ばしたり、はり倒したり、と彼らだって負けてはいない。

そうだきっと、足穂はこのような反撃を期待していた。だから、足穂に攻撃された人たちも、『一千一秒物語』の星や月のように、やり返して、足穂をやっつけてしまえば良かったのだ。泥を投げつけられたら投げ返す。そして、また投げる。そんな「泥んこ遊び」のような無邪気な遊技が、きっと、足穂のお気に入りだ。

いや、しかし待てよ。足穂と喧嘩じゃ、そうとう消耗しそう・・・、結局のところ、足穂の相手が務まるのは星や月ぐらいなのかもしれない・・・


『一千一秒物語』について

大正12年、金星堂から発行。稲垣足穂(いながき・たるほ)19歳の時の作品。佐藤春夫が序文を書いている(※1)昭和38年には作家社から復刻版が出る。新潮文庫(昭和44年)、木馬社(昭和62年)、透土社の「一篇一冊物語双書」(平成2年)、筑摩書房(平成17年)からも出ている。絵本もある(平成6年 リブロポート)。

荒唐無稽で、お洒落な作品。

神奈川近代文学館には、ペン書き66枚の草稿が所蔵されている。


稲垣足穂について

飛行家に憧れた幼少期
明治33年12月26日、大阪生まれ。飛行家に憧れ、13歳で飛行機の同人誌を発行。関西学園在学中、複葉機も作った(プロペラが回るだけで飛び上がらなかった)。

モダンボーイともてはやされていたが・・・
大正12年(19歳)、『一千一秒物語』を上梓、評価された。その頃の足穂は、モダンボーイとして女学生から人気があった。しかし、後に酒に溺れ、知人宅に転がり込みながら辛うじて生き延びるといったギリギリの生活となる。15年間、布団さえ所持せず、カーテンにくるまって眠り、7日間絶食したこともあったとか。

戦後、再評価される
戦中と戦争直後は目立った活動がなかったが、昭和43年(68歳)、『少年愛の美学』で第一回日本文学大賞を受賞、文壇へ再び現れる。その時「日本文壇が足穂に追いつくのには時間がかかった」という声があった。足穂を強く押したのは三島由紀夫だった。

志代夫人が亡くなってからは自作の耽読に終始する。2年後の昭和52年10月25日、死去(※2)。満76歳だった。
墓所は、 京都法然院( )。


足穂足穂と馬込文学圏

昭和5年頃(30歳)、佐藤春夫の家を追い出された足穂は、関西学園で一級下だった衣巻省三の家(南馬込4-31-6)に転がり込んで半年ほど居候する。朝から酒を要求する足穂に、衣巻はウンザリだった。「文芸レビュー」の伊藤整らも衣巻家で足穂に会っている(※3)

その後、巣鴨、明石と移転するが、昭和11年(36歳)暮、再び衣巻家に舞い戻ってしまう。2度目の居候時代については「馬込日記」に詳しい。飛行機か何かの模型を作ったり、衣巻の息子に物語を読んで聴かせたり、話し相手になったりと、なかなか“いいおじさん”だ。しかし、酒びたりは相変わらずで、見かねた室生犀星に説教され、泣き出すという一幕もあった。

後年、衣巻が零落すると、反対に、京都にいた足穂を頼った。人の悪口が多い足穂だったが、衣巻の悪口は言わなかったという。

足穂が転がり込んだ衣巻省三邸付近 ※2000年頃撮影

作家別馬込文学圏地図「稲垣足穂」→


※1:
佐藤春夫の序文から「---音話の天文学者---セルロイドの美学者---アスファルト街上の児童心理学者---ゼンマイ仕掛けバネ仕掛けの機械学者---奇異なる官能的レッテルの蒐集家---そうして、アラビアンナイトの荒唐無稽---をまんまとシガレットのなかに 封じ込めたのだぜ? 誰が? イナガキ、タルホがさ」

※2:
志代夫人は昭和50年10月24日に亡くなっている。

※3:
「私は稲垣足穂と深い交わりは持っていないし、勿論持つことを望んでいない。深い交わりを求められても拒絶するつもりである。・・・稲垣足穂には私たちの先輩のエスプリ、ヌーボオーとしての気位くらいはあつたが、失礼な言い方だが衣巻家のカカリウドという感じだった。色の黒い面長な顔は人情というものを拒否するような無表情を持ち続け、始めて逢った私たちに、親しげに彼がその顔で話しかけて来ることが不気味であった。」(伊藤整「作家論」※『馬込文士村の作家たち』P204-205からの孫引き)


参考文献

・別冊一億人の昭和史『昭和文学作家史』
 (毎日新聞社 昭和52年)P.216-219

・『東京きらきら日記』
 (稲垣足穂 潮出版社 昭和62年)
  ※「馬込日記」 p.217-132

・『夫 稲垣足穂』
 (稲垣志代 芸術生活社 昭和46年)

・『大田文学地図』
 (染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年)P.90

・『馬込文学地図』
 (近藤富枝 講談社 昭和51年)P.65-72

・『馬込文士村の作家たち』
 (野村 裕 昭和59年 非売品)P.199-209


参考サイト

松岡正剛の千夜千冊/稲垣足穂の『一千一秒物語』→

文学者掃苔録図書館/稲垣足穂→

一千一秒物語(作家 稲垣足穂HP)→


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※当ページの最終修正年月日
2009.7.22