●『暗夜行路』・・・志賀直哉(しが・なおや)の作品。大正3年『時任謙作』という題で東京朝日新聞に連載される予定だったが、挫折。前編のみ大正10年1月(38歳)から「改造」に連載された。後編は昭和12年に完結。前後編合わせると17年間かかったことになる。志賀直哉の唯一の長編小説であり、また日本近代文学を代表する作品の一つでもある。

志賀の正確無比な描写は定評のあるところだが(志賀は“小説の神様”などと呼ばれる)、何でもかんでも事細かに書くかといえば、そうでもない。いやむしろ、「おや?」と思うほど、書かないこともあるのである。

次の一文は『暗夜行路』から。

謙作は身をずらして、寝床に空き地を作ってやった。直子は元気なく起きかえって、来て、そこへすわった。憂鬱な、無表情な、醜い顔をして、ぼんやりと床の間のほうへ目をそらしていた。そこへさっきひどく喜んだ壺や箱がある。(『暗夜行路』より)

文の背景を簡単に説明すると、主人公の時任謙作はある事情があって、結婚直後の愛妻、直子を国に残して長い旅に出る。しかし、謙作がいない間に、直子と彼女の従兄弟とが過ちを犯してしまうのである。ようやく謙作が家に帰って来て、楽しい土産話も一段落した就寝前のこと、謙作は直子のどことなく不自然な感じに気が付く、とそういった時のことが書かれている。

直子に同情の余地がないわけではないのだが、その時の彼女の表情が「哀しげ」ではなく「醜く」なのは、リアリスト志賀の冷徹なところである。が、それよりも、文の中で、「そこへさっきひどく喜んだ壺や箱がある」で文がプツリと切れる。後は書かないのである。

その「壺と箱」とは、直子を喜ばせるために謙作が旅先で苦労して探してきたもので、さっき直子はそれに大喜びしたばかりなのであった。そして、今、その「壺と箱」が直子の視線の先にある。ふと目をそらした視線の先で、彼女の網膜に「壺と箱」が像結んだ時、彼女の内面に湧き上がったであろう感情。それは「絶望」「悲しみ」「慚愧の念」「後悔」とかそういった類の感情だと思うが、それには一言も志賀は言及しないのであった。

それは、あえて志賀が書かなかったのだと思う。

書いてしまえば、「絶望」とか何やの、ただそれだけの言葉の概念としてしか読者に伝わらない。しかし、書かないときに反対に、私達は登場人物の感情などをその行間に思い浮かべるのだと思った。私達は、直子とともに「目をそらし」、直子とともに「壺や箱」を見て、そして直子とともに絶望する。

別に『暗夜行路』だけに限ったことではないだろうが、志賀直哉の文章は、この書いたり書かなかったりするそのバランスが絶妙なのだと思った。


『暗夜行路』を読むには

『暗夜行路 前編』(新潮社 大正11年)
『岩波文庫 暗夜行路 前後編』
 (昭和13年 岩波書店、昭和23年と平成16年に改版、
  昭和51年『ほるぷ図書文庫』から再発行)
『暗夜行路』(昭和18年  座右宝刊行会
  昭和44年日本近代文学館から復刻版)
『暗夜行路 前後』(小山書店 昭和22年)
『現代日本小説大系27 暗夜行路』(河出書房 昭和24年)
『新潮文庫 暗夜行路』(新潮社 昭和26年)
『現代日本名作選 暗夜行路』(昭和27年 筑摩書房)
『角川文庫 暗夜行路』(角川書店 昭和28年 昭和42年改版)
『創元社文庫 暗夜行路』(創元社 昭和28年)
『河出文庫 暗夜行路 前編』(河出書房 昭和30年)
『暗夜行路』(東方社 昭和41年)
『旺文社文庫 暗夜行路』(旺文社 昭和40年)
『講談社文庫 暗夜行路』(講談社 昭和46年)
『日本の文学40-41 暗夜行路』(ホルプ社 昭和60年)
『大活字シリーズ 暗夜行路』(埼玉福祉会 平成14年)
などで読むことができる。

■『暗夜行路』を読むことができる図書館
国立国会図書館→-を所蔵)
 ※他の図書館で『暗夜行路』を見つけましたら、BBSでお知らせください。


志賀直哉について

ヒューマニズムに燃え、そして父親と断絶
明治16(1883)年2月20日、父親の勤務地の宮城県石巻で生まれる。祖父は相馬家の管領であり、父親は総武鉄道を興したという人物。裕福な環境に育つ。明治18年(2歳)、東京麹町の祖父母の元に移る。明治34年(18歳)、無教会主義のキリスト教指導者内村鑑三の夏期講習に参加し、以後彼の元に7年間通う。足尾銅山鉱毒問題に関心を持ち被害地の視察を希望するが父親からの猛反対にあい、挫折。明治43年(27歳)、武者小路実篤、有島武郎らと雑誌「白樺」を創刊。この年に東京帝国大学を中退する。

文学における第三の道を示した
初めて稿料を得たという作品『大津順吉』(明治45年 29歳)で賞賛され、以後「名文章家」の誉れ高く、多くの作家の指標になった。志賀までの日本近代文学では、家庭破壊するか革命運動に身を投じるかしないと感動的な作品が描けないといった風潮があったが、志賀は「模範的な人格を獲得する苦しみを写実する(井上ひさし)」といった文学の第三の道を示したという。
昭和46(1971)年、86歳で、老衰のため死去する。青山墓地の志賀一族の墓所に眠っている( )。


志賀直哉は本当に山王に住んだか?

大正2年(30歳)、尾道から帰京した志賀直哉は、山手線の電車にはねられ重傷を負い、しばらく城之崎で養生、その後の落ち着き先が「山王」だった。と、ものの本にはある。しかし、本当に志賀は本当に「山王」に住んだことがあるのだろうか。もしそうだとしたら、“馬込文学圏”の最も初期の住人ということになる。

上で紹介した志賀の『暗夜行路』は志賀の半自叙伝といわれており、主人公の時任謙作は志賀自身の生い立ちとかなり一致する部分がある。そしてその謙作は、たしかに大森に住んだことがあるのだ。「大井の山王寄りの一軒建ての二階屋」を「山王の大家」から借り、最寄りの駅は「大森停車場」で、ここでの生活は「謙作の大森の生活」とくくられている。しかし、大森は大森でも「山王」ではない。「山王」近くの大井なのである。

阿川弘之の『志賀直哉(上)』(1994年 岩波書店)によると、

尾道から帰った直哉は、取り敢へず麻布三河台の家に荷を解き、耳鼻科の病院に通ひ始めるが、一年前「自活します」と言って此処を出た身である以上、いつまでもそうやつて暮らしてゐるわけには行かなかつた。年末近く、大森駅に近い東京府下大井4755といふところに手頃な貸家を見つけて其処へ移り住む。(P.205)

とある。やはり、志賀自身も『暗夜行路』の謙作と同様、住んだのは大井のようだ。それも、大森駅から近い、つまり「山王」寄りの大井である。

では、「志賀が山王に住んだ」というのは誤りかというと、そうとも言い切れないようである。というのは、大井町の方まで含めて「山王」と呼ばれることもあるからなのだ。そもそも「山王(権現)」とは日枝神社のことで、日枝神社一帯は「山王」と呼ばれる。地名の上では大井でも日枝神社の近くならば「山王」と呼ばれても不思議ではないのである。志賀が住んだのは、大森駅の近くの大井というので、つまり日枝神社からも遠からぬ距離である。

整理すれば、志賀直哉は現在の「山王」には住んでいない。住んだのは大井である。しかし、「山王」と呼ばれてもおかしくないほど、「山王」の近くに住んでいたということである。

ちなみに大井時代の志賀は、和辻哲郎を訪ねたり、また夏目漱石に会いにいったりしている。大井での居住期間はほぼ半年。翌年の昭和3年5月には松江へ移動している。

志賀直哉の、馬込ゆかりの作家との付き合いを記せば、広津和郎とは、松川事件の時の同士であり、晩年の麻雀仲間でもある。また、志賀が萩原朔太郎家のダンスパーティーにも顔を出したとする本がある(疑問視もあり)。また、世間からの非難をごうごうと受けている北原白秋に厚意ある言葉を送ったのも志賀であったし、それと、文章の上手さで芥川龍之介に衝撃を与えた人物も志賀である。


参考文献

●『群像 日本の作家9 志賀直哉』
(小学館 平成3年)

●『志賀直哉』
(阿川弘之 岩波書店 平成6年5刷)P.182-183、P.205

●『大森山王と周辺の歴史を探る』
(後藤浅次郎  朝日出版 平成3年3刷)P.16-17

●『大田文学地図』
(染谷孝哉 蒼海社 昭和46年)P.10、P.106-108

●『新潮日本文学アルバム 志賀直哉』
(新潮社 昭和61年)

●『座談会 昭和文学史(一)』
(井上ひさし 小森陽一 編著 集英社 平成15年) P.203-322

●『別冊一億人の昭和史 昭和文学作家史』
(毎日新聞社 昭和52年)P.73-77


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※当ページの最終修正年月日
2006.7.02