大助は、愛人に泣きつかれて牛追村を逃げ去った哀れな男だ。が、何年かして突然、村の仲間のもとに帰って来た大助は、たいへんな変わり様であった。かつてのしょぼくれた面影は少しもなく、彼が生き生き語るところによると、今やアンナン独立のために奔走する身なのだそうだ。悲劇の王族を匿ったり、そのために刺客につけ狙われたり、でも海賊の女頭目に助けられたり、張作霖の軍事顧問をしたり、重要な使命を帯びてシベリアに潜んだり・・・と彼の冒険談は尽きない。仲間たちはあんぐり口を開けて大助の話に聞き入るのだった。

しかし、いろいろと変でもあった。なぜに、大介は仲間内では饒舌なのに専門家の前では何も語れなくなってしまうのか? それに明らかに話のつじつまが合わなくなるのは何故か?

それでも、ついつい大介の話の熱気に引き込まれる仲間たち・・・

彼ら牛追村の住人にとって重要なのは、情熱だ。目を輝かせて語る大助を彼らは愛した。ここは、空想部落なのだ。

で、大助は、やっぱり大嘘つきなのだろうか?・・・実はこの小説、最後の最後に、どんでん返しがあります。


『空想部落』について

尾崎士郎、38歳の時の小説。昭和10年5月から朝日新聞の夕刊一面に連載された(神奈川近代文学館と東京都大田区立郷土博物館に保管されている)。昭和11年新潮社から単行本化(装丁:鈴木信太郎、挿絵:長谷川春子)。同社から昭和14年ソフトカバー版もでる。他に日東出版社版(昭和21年)、東晃書院版(定本、昭和22年)、角川文庫版(昭和30年)、圭文館版(馬込の写真と著者の写真の口絵あり。200冊限定の箱入りの豪華本もある。昭和37年)などがある。

空想部落
空想部落

左が昭和11年発行新潮社版、中央が昭和14年発行ソフトカバー版、右が昭和37年発行圭文館版。(クリックで拡大)

昭和14年、映画化。舞台に乗ることもあった。

小説の登場人物は、尾崎によると「別に特定の人間を念頭において書いたわけではない(圭文館版『空想部落』作者あとがきより)」そうだが、馬込文学圏の作家たちが素材であることは作者も否定しないであろう。(『空想部落』の登場人物と馬込作家の対応→

後年、尾崎を中心にそば屋「ゴヘイ」の2階で「空想部落」という名の飲み会が開かれるようになった。名刺まで作って盛り上がったそうで、メンバーは関口良雄久保田正文矢部尭一など。


尾崎士郎について

ドモリに負けず
明治31(1898)年、愛知県吉良町で生まれる。三男坊。小学校1年生の時横浜へ養子に出される(小学校は老松小学校)が養家になじめず、1〜2年で吉良に戻ってきてしまう(※1)。中学の頃、ドモリを苦にして一時期引っ込み思案になるが、川の堤防で発声練習して、一躍、雄弁家になった。時々激しくドモルのが“熱意の表れ”のような効果になったという。同じ中学に山川 均の甥がいたことなどから社会主義に関心を持ち、早稲田大学の政治科に進む。在学中、学長人事に対する学生側からの抗議行動(「早稲田騒動」)では総長派のリーダーとなった。大正6年(19歳)頃、普選運動に奔走、投獄された。翌大正7年(20歳)、 長兄がピストル自殺、次いで実家が凋落。生活の資を得るために東洋経済新報売文社をわたり歩く。 大正8年(21歳)、月謝滞納と長期欠席のため大学から除籍される。

文学における「一人一党」を訴える
大正10年(23歳) 、気まぐれで書いた『獄中より』が時事新報の懸賞小説で2位になり(1位は宇野千代)、文壇から注目される。同年改造社から出された『逃避行』では、早くも社会主義運動に対する疑問が表明された。その後、社会主義に限らず、主義・主張・理論・法則なるものを嫌い、プロレタリア文学・新感覚派といった文学運動も嫌悪する。大正14年(27歳)に『不同調』を創刊、「文壇における一人一党」を訴えた。昭和4年(31歳)、川端康成らと「没落時代」を創刊。同年、川端康成らと「十三人倶楽部」を結成、集団的な主張はなかったが、「マルキシズム文芸にあきたらず」という点で団結した。尾崎の文学的関心は、物事の悲劇性や人物の心理的な葛藤や情熱や純粋性を表現することだった。思想的・政治的な意図がなかったからこそ、大逆事件や2.26事件といった政治的には対極のモチーフをも取り上げ得たといえる。

国民的作家となる
満州事変(昭和6年)の頃からプロレタリア文学の退潮が始まり、その時代の雰囲気の中で、『人生劇場』(昭和8年 35歳)が大ヒット。一躍、国民的作家となる。『空想部落』もこの頃書かれた。昭和12年(39歳)、中央公論の戦地特派員として中国大陸にわたり、昭和16年(43歳)には、菊池 寛高村光太郎らとともに大政翼賛会協力会の評議員になり、同年、ペン部隊として石坂洋次郎らとともにフィリピンに派遣された。昭和18年(45歳)には、文学報国会の常任理事に就任。尾崎がジャーナリズムから最ももてはやされたのは戦時中だった。しかし、それは彼が時局に迎合したからではなく、むしろ時局に迎合しない気骨ある態度であったからこそ、軍人を含む多くの人から敬愛されたのだという。いわゆる「戦争もの」というものを尾崎は書いていない。

中間小説で返り咲く
昭和20年(47歳)、日本敗戦。ジャーナリズムと文壇は、戦中、文壇の中心にいた尾崎の戦争責任を追及した。昭和23年(50歳)、「公職に就くことと政治的発言・行動の禁止令」を受ける(昭和25年に解除)。昭和24年(51歳)、中間小説のブームに乗り、『ホーデン侍従』(週刊新潮)で再び人気作家に返り咲いた。
昭和39(1964)年2月19日、腸ガンで帰らぬ人になる。66歳だった。墓所は神奈川県川崎市の春秋苑と愛知県吉良町の福泉寺( )。


尾崎士郎と馬込文学圏

尾崎士郎の馬込時代・前期
大正12年、室伏高信宇野千代と親しくなりたくて懸賞小説で1位と2位を分け合った宇野(26歳)尾崎士郎(25歳)を呼びだすが、呼び出した二人が仲良くなってしまった。本郷の「菊富士ホテル」と大森の新井宿の下宿「寿館」で同棲する。その後、上泉秀信のすすめで南馬込4丁目に納屋を改造してバンガロー風の家を作った。南馬込4-28-11。現在も「宇野」の表札が下がっている。

尾崎士郎宇野千代が住んだ辺り。この路地を少し行った右手に、バンガロー風の「愛の巣」があった。

そこは「馬込放送局」と呼ばれ、連日、酒客でにぎわった。常連は、今井達夫藤浦 洸榊山 潤吉田甲子太郎室伏高信上泉秀信坪田譲治秋田忠義など。尾崎は、気に入った作家には馬込住まいを勧め、そして多くの作家がそれに応じ、馬込文士村という雰囲気が生まれる。尾崎の勧めで馬込にきた作家は川端康成牧野信一間宮茂輔などがいる。その他、馬込で尾崎士郎と行き来があった作家に萩原朔太郎衣巻省三広津和郎などがいる。また、添田知道とは、売文社時代の同僚であり、 高見 順とは「文学非力説論争」(昭和16年)した仲である。なお、尾崎のご令嬢の尾崎一枝氏はエッセイストとして活躍されている。

尾崎士郎の馬込時代・後期
宇野千代と別れ古賀清子さんといっしょになってからは、今井達夫宅((現)南馬込2-3-5)の2階に住んだり、筒井敏雄の世話で(現)山王1-39(「風々雨々荘」)に住み、その後、 山王2-1877(38歳。昭和11年〜。(現)山王2-37。天誠書林(パセオ山王1F)があった辺り)、(現)山王1-22 と点々としてる。戦中から戦後しばらく伊東に疎開し、昭和29年(56歳)、再び山王(山王1-2850。(現)山王1-36-26。現在「尾崎士郎記念館」になっている)に戻り、そこで没している。(※2)

尾崎士郎が通ったバー「白蛾」
大森駅の東口にあったバー「白蛾」に尾崎はしばしば足を運んだ。そこのマダムとの関わりを描いた『青い酒場』『悪太郎』『売れた酒場』といった「白蛾もの」といわれる作品も生まれた。マダムは三井財閥の重役の令嬢で、社会主義者の福本和夫の妻だったこともあるという女性で、尾崎の作品発表直後に自殺したことから、尾崎作品の是非が問われた。

作家別馬込文学圏地図「尾崎士郎」→


※1:
・『山本周五郎 馬込時代』P.59

※2:
・『馬込文士村の作家たち』P.180-181、P.183
・「尾崎士郎記念館」パンフレットの年譜
・『評伝 尾崎士郎』P.354


参考文献

・『評伝 尾崎士郎』
 (都築久義 ブラザー出版 昭和46年)

・『馬込文士村の作家たち』
 (野村裕 非売品 昭和59年)P.179-183

・『山本周五郎 馬込時代』
 (木村久邇典 福武書店 昭和58年)

・『文壇資料 馬込文学地図』
 (近藤富枝 講談社 昭和51年)P.17-32

・大田区史研究『史誌 32』
 「馬込文士村の作家たち」
  (東京都大田区 平成2年)

・『大田文学地図』
 (染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年) P.55-62

・『馬込村文芸の会 十年の歩み』P.82

・圭文館版『空想部落』(昭和37年)※あとがき

・「尾崎士郎記念館」パンフレット


参考サイト

早稲田と文学/ 尾崎士郎→

文学者掃苔録図書館/尾崎士郎→

吉良町公式サイト/尾崎士郎記念館→

今日のことあれこれと・・・/
「瓢々忌」小説家・尾崎士郎の忌日→

※瓢々忌や『人生劇場』について


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※当ページの最終修正年月日
2009.1.29