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Japanese version only. |
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| 尾崎士郎の『空想部落』を読む
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| 上下とも、左が昭和11年発行新潮社版 『空想部落』(装丁:鈴木信太郎、挿絵:長谷川春子)、中央が昭和14年発行新潮社ソフトカバー版 『空想部落』、右が昭和37年発行圭文館版 『空想部落』(当時の馬込と著者の写真あり。200冊限定の箱入り豪華本も)。 |
尾崎士郎が38歳の時の作品。 馬込文学圏とそこに住まう作家たちをモデルにしたフィクション(『空想部落』 の作中人物と馬込作家の対応→)。昭和10年5月から朝日新聞の夕刊一面に連載された(※1)。 昭和11年新潮社で単行本化。 同社から昭和14年ソフトカバー版も出る。 他には、日東出版社版(昭和21年)、東晃書院版(定本、昭和22年)、三笠文庫版(昭和28年)、角川文庫版(昭和30年)、圭文館版(昭和37年)などがある。
※1:神奈川近代文学館と東京都大田区立郷土博物館に保管されている
昭和14年、映画化(日本映画データベース/空想部落→)。 舞台にも乗った。
後年、 『空想部落』 にちなんで、尾崎を中心に 「空想部落の会」 という飲み会が、地獄谷の 「鈍魚庵吾作(どんこあんごさく)(※2)」 や、「河童亭」の2階などでもたれた。 名刺まであったという。 メンバーは関口良雄、久保田正文、矢部尭一など。
※2:「吾作」 のママによると 「2階で 『空想倶楽部』 と称して士郎たちが集まっていた」 とのこと。 「馬込文士村ガイドの会」 のS様から情報をいただいた。 『関口良雄さんを憶う』で久保田正文は、 「鈍魚庵」 を 「呑魚庵」 とあてて書いている。
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| 尾崎士郎 ※馬込文士村レリーフより |
ドモリに負けず
明治31(1898)年2月5日、愛知県吉良町生まれ。三男坊。 小学1年で横浜へ養子に出されるが養家になじめず、1〜2年で吉良に戻る(※3)。 中学の頃、ドモリを苦にして引っ込み思案になるが、川の堤防で一人発声練習をして、一躍、雄弁家になる。 時々激しくドモルのが“熱意の表れ”のような効果になったという。 同じ中学に山川均の甥がいたことなどから社会主義に関心を持ち、早稲田大学政治科に進む。 在学中、学長人事に対する抗議行動のリーダーになった(「早稲田騒動」)。 大正6年頃(19歳)、普選運動に奔走し投獄された。翌大正7年(20歳)、 長兄がピストル自殺、次いで実家が凋落。 生活の資を得るために東洋経済新報や売文社をわたり歩いた。 大正8年(21歳)、月謝滞納と長期欠席により大学から除籍された。
※3 : 小学校は老松小学校。 今井達夫も同校出身。
文学における「一人一党」を訴える
大正10年(23歳) 、気まぐれで書いた 『獄中より』 が時事新報の懸賞小説で2位になり(1位は宇野千代)、文壇から注目される。 同年改造社から出された 『逃避行』 では、早くも社会主義運動に対する疑問が表明された。 その後は、社会主義に限らず、どんな主義や理論も嫌悪し、プロレタリア文学・新感覚派といった文学運動からも距離を持つ。 大正14年(27歳)、 「不同調」 を創刊、 「文壇における一人一党」 を訴えた。昭和4年(31歳)、川端康成らと 「没落時代」 を創刊。 同年、川端康成らと 「十三人倶楽部」 も結成した。 尾崎の文学的関心は、物事の悲劇性や、人物の心理的な葛藤や情熱を表現することだった。 思想的・政治的な意図がなかったからこそ、大逆事件や2.26事件といった政治的には対極のモチーフを取り上げ得たといえる。
国民的作家となる
満州事変(昭和6年)の頃の時代の雰囲気の中で、 『人生劇場』(昭和8年 35歳)が大ヒットし、一躍、国民的作家になった。 『空想部落』 もその頃書かれた。 昭和12年(39歳)、中央公論の戦地特派員として中国大陸にわたり、昭和16年(43歳)には、菊池寛や高村光太郎らとともに大政翼賛会協力会の評議員になり、同年、ペン部隊として石坂洋次郎らとともにフィリピンに派遣された。昭和18年(45歳)には、文学報国会の常任理事に就任した。
中間小説で返り咲く
昭和20年(47歳)、敗戦後、ジャーナリズムと文壇は、戦中、文壇の中心にいた尾崎の戦争責任を追及した。 昭和23年(50歳)、「公職に就くことと政治的発言・行動の禁止令」 を受けた(昭和25年に解除)。 昭和24年(51歳)、中間小説のブームに乗り、 『ホーデン侍従』(週刊新潮)で再び人気作家に返り咲いた。
昭和39(1964)年2月19日、腸ガンで帰らぬ人になる。 満66歳だった。 墓所は神奈川県川崎市の春秋苑と愛知県吉良町の福泉寺( )。
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| 尾崎士郎と宇野千代が住んだ辺り。この路地を少し行った右手に、バンガロー風の家があった。 |
尾崎士郎の馬込時代・前期
大正11年暮(24歳)、室伏高信(31歳)を介して、宇野千代(25歳)に会う。その夜から、菊富士ホテル(東京本郷)で同棲を始めた。
翌大正12年には、馬込文学圏(新井宿)の下宿屋 「寿館」に転居、後に上泉秀信のすすめで現・南馬込4-28-11に納屋を改造したバンガロー風の家を作った。 そこは連日、今井達夫、藤浦洸、榊山潤、吉田甲子太郎、室伏高信、上泉秀信、坪田譲治、秋田忠義ら酒客でにぎわう。 尾崎のすすめで、川端康成、牧野信一、間宮茂輔なども馬込文学圏入り。 “文士村”の雰囲気が形成された。 同地在住の萩原朔太郎、衣巻省三、広津和郎などとも行き来した。 宇野千代と別れ古賀清子といっしょになってからは、馬込文学圏内を点々とした(※4)。
※4:今井達夫宅(現・南馬込2-3-5)の2階に住んだり、 筒井敏雄の世話で 「風々雨々荘」(現・山王1-39)なる家に住んだり、 山王2-1877(38歳。昭和11年〜。現・山王2-37。天誠書林(パセオ山王1F)があった辺り)に住んだり、 現・山王1-22に住んだりした。
尾崎が通ったバー「白蛾」
昭和7年春頃(34歳)、大森駅東口のバー「白蛾」のマダム星野幸子と親しくなり、彼女との関わりを 『青い酒場』 『悪太郎』 『売れた酒場』 といった 「白蛾もの」 に書く。
尾崎士郎の馬込時代・後期
戦中、伊東に疎開するが、昭和29年(56歳)、再び馬込文学圏(現・山王1-36-26。現在 「尾崎士郎記念館 ※リンク→」 になっている)に戻り、そこで没した。
他の尾崎と関わりのある馬込作家をあげると、添田知道。 彼とは売文社時代の同僚。 高見順とは 「文学非力説論争」(昭和16年)し犬猿の仲だった。 なお、令嬢の尾崎一枝さんはエッセイストとして活躍されている。
・ 『評伝 尾崎士郎』(「日本の古本屋」で探す→)
(都築久義 ブラザー出版 昭和46年) P.114、P.178-180、P.354
・ 『馬込文士村の作家たち』(Amazonで詳細を見る→)
(野村裕 非売品 昭和59年) P.179-183
・ 『山本周五郎 馬込時代』(Amazonで詳細を見る→)
(木村久邇典 福武書店 昭和58年) P.59 ※尾崎が通った老松小について
・ 『関口良雄さんを憶う』(Amazonで詳細を見る→)
(夏葉社 平成23年) P31-32 ※「空想部落の会」について
・ 『文壇資料 馬込文学地図』 (Amazonで詳細を見る→)
(近藤富枝 講談社 昭和51年)P.17-32
・ 『大田文学地図』 (Amazonで詳細を見る→)
(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年) P.55-62
・ 『馬込村文芸の会 十年の歩み』 P.82
・ 『空想部落』(尾崎士郎 圭文館 昭和37年) ※あとがき
・ 「尾崎士郎記念館」 パンフレット ※年譜
・ 今日のことあれこれと・・・/「瓢々忌」小説家・尾崎士郎の忌日→
※瓢々忌や『人生劇場』について
※当ページの最終修正年月日
2012.2.6