●『空想部落』・・・尾崎士郎(おざき・しろう)38歳の時の小説。昭和10年5月から朝日新聞の夕刊一面に連載された。昭和14年、映画化。
大嘘つきなのは、大介という男だ。
大助は愛人に泣きつかれて村を逃げ去った哀れな男なのだが、何年かして突然、村の仲間のもとに帰ってくる。それがたいへんな変わりようで、昔のしょぼくれた面影は少しもなく、彼が生き生きと語るところによると、今の彼はアンナンの独立のために奔走する身の上なのだそうだ。悲劇の王族を匿ったり、そのために刺客につけ狙われたり、海賊の女頭目に助けられたり、張作霖の軍事顧問をしたり、重要な使命を帯びてシベリアに潜んだり・・・と彼の冒険談は尽きることがない。仲間たちはあんぐり口を開けて大助の話に聞き入るのだった。
しかし、いろいろと変なのだ。大介は仲間内では饒舌なのに専門家の前では何も語れなくなってしまう。それに明らかに話のつじつまが合わなくなることだってある。仲間の中には大助の話を端から信じずあざ笑う人も出てくる。
それでも、大介の熱気に引き込まれていく彼ら。大助への疑惑がいよいよ高まってきた時でさえ、涙しながら言う。

彼らにとっては、空想、情熱こそが重要なのだ。実質が伴わなくても、目を輝かせている大助のことを彼らは愛する。ここは、空想部落なのだ。
・・・と、大助が大嘘つきであるとしてきたが、実はこの小説、最後の最後に、びっくり仰天のどんでん返しがあるのです。お楽しみに!
登場人物のモデルは?
著者の尾崎士郎は「(この小説の登場人物は)私が、いろいろな人間をごっちゃにして、勝手に創造した人物である」と書いているが、馬込文学圏の作家たちがその原型にあることには相違なさそうだ。(『空想部落』の登場人物と馬込文学圏の作家の対応関係→)
『空想部落』を読むには
『空想部落』(新潮社 挿絵:長谷川春子 昭和11年)
『空想部落』
(ソフトカバー 新潮社 昭和14年)
『空想部落』
(日東出版社 昭和21年)
『定本
空想部落』
(東晃書院 昭和22年)
『角川文庫 空想部落』
(角川書店
昭和30年 )
『空想部落』
(圭文館 昭和37年)
※出版当時の馬込の写真と著者の写真が口絵にあり
※200冊限定の箱入りの豪華本もあり
などで読むことができる。なお、朝日新聞の夕刊に連載された『空想部落』は神奈川近代文学館と東京都大田区立郷土博物館に保管されているようだ(外部リンク:神奈川近代文学館→)。
■『空想部落』が読める図書館
・国立国会図書館→(     を所蔵)
・東京都大田区立馬込図書館→ (     を所蔵)
・東京都中央区立図書館→
( を所蔵)
・東京都台東区立図書館→( を所蔵)
・東京都江東区立図書館→( を所蔵)
・東京都葛飾区立図書館→
( を所蔵)
・東京都目黒区立図書館→( を所蔵)
・東京都立図書館(3館)→( を所蔵)
尾崎士郎について
ドモリに負けず
明治31(1898)年、愛知県吉良町で生まれる。三男坊。小学校1年生の時横浜へ養子に出される(小学校は老松小学校)が養家になじめず、1〜2年で吉良に戻ってきてしまう(※1)。中学の頃、ドモリを苦にして一時期引っ込み思案になるが、川の堤防で発声練習して、一躍して雄弁になる。時々激しくドモルのが“熱意の表れ”のような効果になったという。同じ中学に山川 均の甥がいたことなどから社会主義に関心を持ち、早稲田大学の政治科に進む。在学中、学長人事に対する学生側からの抗議行動(「早稲田騒動」)では総長派のリーダーとなった。大正6年(19歳)頃、普選運動に奔走、投獄された。翌大正7年(20歳)、
長兄がピストル自殺、次いで実家が凋落。生活の資を得るために東洋経済新報や売文社をわたり歩く。 大正8年(21歳)、月謝滞納と長期欠席のため大学から除籍される。
文学における「一人一党」を訴える
大正10年(23歳) 、気まぐれで書いた『獄中より』が時事新報の懸賞小説で2位になり、文壇から注目される。同年改造社から出された『逃避行』では、早くも社会主義運動に対する疑問が表明された。その後、社会主義に限らず、主義・主張・理論・法則なるものを嫌い、プロレタリア文学・新感覚派といった文学運動も嫌悪した。大正14年(27歳)に雑誌『不同調』を創刊、「文壇における一人一党」を訴えた。昭和4年(31歳)、川端康成らと「没落時代」を創刊。同年、川端康成らと「十三人倶楽部」を結成、集団的な主張はなかったが、「マルキシズム文芸にあきたらず」という点で団結した。尾崎士郎の文学的関心は、物事の悲劇性や人物の心理的な葛藤や情熱や純粋性を表現することだった。思想的・政治的な意図がなかったからこそ、大逆事件や2.26事件といった政治的には対極のモチーフもを取り上げ得たといえる。
国民的作家となる
満州事変(昭和6年)の頃からプロレタリア文学の退潮が始まり、その時代の雰囲気の中で、『人生劇場』(昭和8年 35歳)が大ヒット。一躍、国民的作家の地位を得る。上で取り上げた『空想部落』もこの頃書かれた。昭和12年(39歳)、中央公論の戦地特派員として中国大陸にわたり、昭和16年(43歳)には、菊池 寛や高村光太郎らとともに大政翼賛会協力会の評議員になり、同年、ペン部隊として石坂洋次郎らとともにフィリピンに派遣された。昭和18年(45歳)には、文学報国会の常任理事に就任。尾崎士郎がジャーナリズムから最ももてはやされたのは戦時中だった。しかし、それは彼が時局に迎合したからではなく、むしろ時局に迎合しない気骨ある態度であったからこそ、軍人を含む多くの人から敬愛されたのだという。いわゆる「戦争もの」というものを尾崎士郎は書いていない。
中間小説で返り咲く
昭和20年(47歳)、日本敗戦。ジャーナリズムと文壇は、戦中、文壇の中心にいた尾崎士郎の戦争責任を追及した。昭和23年(50歳)、「公職に就くことと政治的発言・行動を禁止令」を受ける(昭和25年に解除)。昭和24年(51歳)、中間小説のブームに乗り、『ホーデン侍従』(週刊新潮)で再び人気作家に返り咲いた。
昭和39(1964)年2月19日、腸ガンで帰らぬ人になる。66歳だった。墓所は神奈川県川崎市の春秋苑と愛知県吉良町の福泉寺(
)。
尾崎士郎と馬込文学圏
尾崎士郎の馬込時代・前期
大正12年(25歳)、室伏高信を通じで宇野千代と出会い、本郷の「菊富士ホテル」と大森の新井宿の下宿「寿館」で同棲する。その後、上泉秀信のすすめで南馬込4丁目に納屋を改造してバンガロー風の家を作った。南馬込4-28-11。現在も「宇野」の表札が下がっている。
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| 尾崎士郎と宇野千代が住んだ辺り。この路地を少し行った右手に、バンガロー風の「愛の巣」があった。 |
そこは「馬込放送局」と呼ばれ、連日連夜の酒客でにぎわった。常連は、今井達夫、藤浦
洸、榊山 潤、吉田甲子太郎、室伏高信、上泉秀信、坪田譲治、秋田忠義など。尾崎士郎は、気に入った作家には馬込住まいを勧め、そして多くの作家がそれに応じ、馬込文士村が誕生する。尾崎の勧めで馬込にきた作家は川端康成、牧野信一、間宮茂輔などがいる。その他、馬込で尾崎士郎と行き来があった作家に萩原朔太郎、衣巻省三、広津和郎などがいる。また、添田知道とは、売文社時代の同僚であり、 高見 順とは「文学非力説論争」(昭和16年)した仲である。なお、尾崎士郎のご令嬢の尾崎一枝氏はエッセイストとして活躍されている。
尾崎士郎の馬込時代・後期
宇野千代と別れ古賀清子といっしょになってからは、今井達夫宅(南馬込2-3-5)の2階に住んだり、筒井敏雄の世話で山王に住んだり、馬込周辺で何度も居場所を変えている。
尾崎士郎が通ったバー「白蛾」
大森駅の東口にあったバー「白蛾」に尾崎はしばしば足を運んだ。そこのマダムとの関わりを描いた『青い酒場』『悪太郎』『売れた酒場』といった「白蛾もの」といわれる作品も生まれた。マダムは三井財閥の重役の令嬢で、社会主義者の福本和夫の妻だったこともあるという女性で、尾崎の作品発表直後に自殺したことから、尾崎作品の是非が問われた。
馬込文学圏の「尾崎士郎」関係地図→
参考文献・参考サイト
●『評伝 尾崎士郎』
(都築久義 ブラザー出版 昭和46年)
●『山本周五郎 馬込時代』
(木村久邇典 福武書店 昭和58年)
※1:P59
●『文壇資料 馬込文学地図』
(近藤富枝 講談社 昭和51年)P.17-32
●大田区史研究『史誌 32』 「馬込文士村の作家たち」
(東京都大田区 平成2年)
●『大田文学地図』
(染谷孝哉 1971年 蒼海出版) P.55-62
● 『馬込村文芸の会 十年の歩み』
P.82
●圭文館版『空想部落』
(昭和37年)※あとがき
参考サイト
●早稲田と文学/
尾崎士郎→
●文学者掃苔録図書館/尾崎士郎のお墓→
●吉良町公式サイト/尾崎士郎記念館→
●今日のことあれこれと・・・/「瓢々忌」小説家・尾崎士郎の忌日→
※瓢々忌や『人生劇場』について
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2008.2.16

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