{column0}


(C) Designroom RUNE
総計- 本日- 昨日-

{column0}

妻は優秀な秘書(山本有三、井岡はなと田端の天然自笑軒で結婚する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山本有三と井岡はな。婚礼の日に、東京田端の天然自笑軒にて ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用しました 出典:新潮日本文学アルバム 『山本有三』 (新潮社)

 

大正8年3月8日(1919年。 山本有三(31歳)と井岡はな(21歳)が東京田端の天然自笑軒で結婚式をあげました。

はなの父親は、英語の教育者・英学者の本田増次郎です。 西園寺公望全権大使の私設秘書としてヴェルサイユ会議に随行したこともあるという人物です。

はなが井岡姓なのは、本田が聖公会の信者だったため同会に所属していないはなの母親とは結婚できず、戸籍上、母・井岡ふでの私生児として届けられたためなんだそうです。はなという名は、 熊本県初のハンセン氏病病院「回春病院」 を設立して日本のハンセン氏病史に大きな足跡を残した英国人宣教師ハンナ・リデルからとられています。 本田はハンナの理想に共感して、終生、同院の評議員でした。

こういった個性的で、筋の通った父親の子だけあって、はなは学業に秀で、書画にも優れ、また近代的センスや文学的素養もあわせ持っていて、有三はそんな彼女にメロメロでした。

二人はめでたく結婚したのですが、さすがのはなも、有三の昼も夜もないすさまじい執筆生活にはついていけず、とうとう根をあげてしまいます。はなが実家に戻って来たものですから、本田はかんかんです。そして、娘を有三の元へは帰さず、はなには離縁を命じるのでした。

その後、有三はというと、はなに心のこもった手紙を書きまくりました。

有三は妻にこういった手紙を書きまくった。これらの手紙の束を、はなは一生の宝にした(『山本有三 (新潮日本文学アルバム)』より)*
有三は妻にこういった手紙を書きまくった。これらの手紙の束を、はなは一生の宝にした(『山本有三 (新潮日本文学アルバム)』より)

9ヶ月後、有三の熱意に折れたのでしょう、はなは有三の元に戻ります。

言うことをきかずに有三の元に帰ったはなを、本田は勘当しました。筋が通った人だけに、頑固でもあったのでしょう。

はなは勇敢でした。結婚して新しい家庭を築くということは、何らかの形で親と決別することかもしれません。

それからのはなは、前の彼女とは違います。有三のすさまじい執筆生活に不満を持つのではなく、それをよく助け、彼の原稿の清書、校正、手紙の代筆、来客の対応までして、彼の秘書として活躍したのです。

有三の多岐にわたる質の高い仕事は、はなの助力なしでは到底なし得なかったといわれます。

『山本有三 (作家の自伝 (48) (シリーズ・人間図書館)』 『山本有三 (新潮日本文学アルバム)』
山本有三 (作家の自伝 (48) (シリーズ・人間図書館)』 山本有三 (新潮日本文学アルバム)』

■ 参考文献:
・ 新潮日本文学アルバム 『山本有三』 ※購入サイト (Amazon)へ→
 (新潮社 昭和61年発行) P.22-31

■ 参考サイト:
ウィキペディア/本田増次郎(平成25年11月3日更新版)→
ウィキペディア/ハンナ・リデル(平成27年2月8日更新版)→

東京紅團/芥川龍之介を巡る/天然自笑軒跡→

※当ページの最終修正年月日
2016.3.8

この頁の頭に戻る