●『翡翠(かわせみ)』・・・片山廣子(かたやま・ひろこ)の第一歌集。38歳の時(大正5年3月25日)、竹柏会出版部から発行された。「心の華叢書」の一冊。
この『翡翠』の作者 片山廣子は、芥川龍之介や室生犀星からクチナシ夫人と呼ばれ、崇拝されていた。クチナシの花の清潔さ・可憐さが片山廣子のイメージなのである。
また、クチナシ夫人というニックネームには、内面の美しさも表されている。言葉遊びの類いだが、片山廣子は決して人を悪く言わなかった。だから、「人を悪く言う口を持たない」=「口無し(クチナシ)」なのである。片山廣子は、限りなく謙虚な人だったようだ。
さて、人から謙虚と思ってもらうためには、「自分を悪く言う」という手がある。これは案外私のような凡人にもできそうだ(と、“謙虚”に言ってみた)。
それで、片山廣子はどうだったかというと、「私の作る短歌なんて本当につまらないものですのよ・・・ほほほ」とか言っていたかというと、全然違う。反対に、彼女は、偉い先生の短歌だけをありがたがって、自分が作る短歌を蔑むのは「罪である」とまで言い切るのであった。
長い代々のわが敷島の道にあつては、一つの歌を見る時、その歌が萬葉人のであつても、西行や實朝のであつても、また自分自身のものであつても、同じように一つの歌として計りみるべきものと私は信じてゐる。自分のものであつても、しひたげ潰すことは罪である。(注1)
彼女の謙虚さは、卑下の裏返しではなかった。
さて、そんな片山廣子の第一歌集『翡翠』である。人の悪口を一切言わなかった、見目麗しきクチナシ夫人に思いを馳せながら味わっていくのも一興であろう。
ことわりも教えも知らず恐れなく
おもひのままに生きて死なばや
よろこびかのぞみか我にふと来る
翡翠の羽のかろきはばたき (注2)
注1:『片山廣子 〜孤高の歌人〜』*「心の華」の中の「お声そのままに」より。
注2:以上2首、『翡翠』より
『翡翠』を読むには
「心の華叢書」の一冊『翡翠』(竹柏会出版部 大正5年)は希少本のようだ。国立国会図書館(外部リンク→)と東京都大田区立馬込図書館(外部リンク→)に所蔵されているのは確認した。清部千鶴子氏の『片山廣子〜孤高の歌人〜』の巻末に『翡翠』の全ての歌が載っているので、それで読むことができる。
片山廣子について
キリスト教の素養を身につける
明治11(1878)年2月10日、東京麻布生まれ。家は森 鴎外や夏目漱石も借りたことがあるという由緒あるもので、現在明治村に移築されている。父親はニューヨークの総領事も務めたという人で、片山は良家の子女として、キリスト教の素養を身につけつつ育った。明治29年(18歳)、寄宿生活を送っていた東洋英和女学院を卒業すると同時に、佐々木信綱の門に入り短歌を学ぶ。「心の華」に参加。明治32年(21歳)、結婚。夫はのちに日本銀行理事となる片山貞治郎氏。
歌から離れ、アイルランド文学の道へ
大正2年(35歳)頃から鈴木大拙夫人ビアトリスから指導を受け、翻訳を学び始める。大正5年(38歳)に第一歌集『翡翠』を上梓
。作歌におけるマンネリズムを嫌い、松村みね子という名でアイルランド文学の翻訳に専念するようになった。大正9年(42歳)に夫と死別。大正10年(43歳)に『ダンセイニ戯曲集』を、大正12年(45歳)には『シング戯曲全集』を翻訳する。大正14年(47歳)、マクラオドの『かなしき女王』を翻訳。この分野での草分けとしての業績を残した。稿料を受け取らない片山に、編集者たちがギャラ代わりの菓子折を持参したというのはいつ頃のことだったか(注3)。
孤高の歌人
長女の総子は遠くへ嫁ぎ、長男の達吉は病没し、浜田山(東京杉並区)で一人暮らす。歌壇に拠って立つことも好まなかった。昭和に入って翻訳からも離れるようになる。第二歌集の『野に住みて』が編まれたのは、昭和29年、片山が75歳のときであった。 昭和31年(78歳)、「燈火節」でエッセイスト賞を受賞。
昭和32(1957)年3月19日、79年間の生涯を閉じる。墓所は染井霊園(東京都)(
)。
注3:『馬込文士村ガイドブック』P.18参照
馬込文学圏時代の片山廣子
明治38年(27歳)、鎌倉から馬込文学圏(山王3丁目)に越してくる。その後、34年間、昭和19年(66歳)強制疎開で東京都杉並区浜田山に越すまで住んだ。片山の人柄に引き寄せられて、馬込文学圏に足跡を残した人物は少なくなく、静かな存在ではあったが、尾崎士郎らが来る前の「初期馬込文士村」の核といってもいいだろう。
・片山廣子 関連地図(馬込文学圏)→
・住んだ辺りの明細地図→
以下に馬込文学圏の片山廣子を巡る人物を列記する。
●小林古径、川端龍子、伊東深水、長谷川 潔、日夏耿之介
彼らは、片山廣子も参加した望翠楼ホテルでの交流サークル「大森の丘の会」のメンバーたち。
●村岡花子
村岡花子は、『赤毛のアン』の翻訳で有名な方。片山廣子を慕って馬込文学圏(大田区中央2丁目)に越してきたそうだ。東洋英和女学院の後輩に当たる。片山は家事の苦手な村岡にご飯のおかずを届けることもあったとか。
●芥川龍之介
芥川龍之介は、帝大生の頃から、片山廣子のことを「才力の上にも格闘できる女」と評して尊敬していたという。在学中にすでに、『翡翠』の好意的な批評文を書いている。大正13年(芥川32歳 片山46歳)、軽井沢のつるや旅館で出会ってからは、彼の尊敬の念はしだいにプラトニックな恋愛感情へと変化していったようで、片山への思いを綴ったと思われる旋頭歌「越し人」や、室生犀星にその胸中を告げた書簡が残っている。彼は死の一ヶ月前にも、片山廣子の家を訪ねている。別れの挨拶に来たのだろうか。二人の関係は、堀 辰雄『聖家族』でも示唆されている。
●堀 辰雄
堀 辰雄は、芥川龍之介を通して片山廣子に出会ったようだ。そして、芥川の死後も片山廣子とその家族と親しくしていたもよう。『聖家族』や『物語の女』で片山廣子の長女(下の項を参照)との関係を示唆したが、実情は堀 辰雄の片思いだったようだ。
●片山総子(宗 瑛)
片山廣子の長女。二十歳の頃、宗 瑛(そう・えい)という名で短編を書き、当時評判になった。
●片山達吉(吉村鉄太郎)
片山廣子の長男。銀行に勤めながら、文芸評論家として活躍した。母 片山廣子の一番の理解者だったともいう。
参考文献
●『片山廣子 〜孤高の歌人〜』
(清部千鶴子 短歌新聞社 平成12年3刷)
●『馬込文学地図』
(近藤富枝 講談社 昭和51年)P.178-188
●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』
(大田区立郷土博物館編 平成8年)P.18、P.56、P.104
●ビデオ『娘が語る作家の素顔〜村岡花子編』
(東京都大田区)
●『大田文学地図』
(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年)P.138-139
●『火災保険特殊地図 N0.66』
(沼尻長治作成 昭和13年)
参考サイト
●大事なことはみーんな萩尾望都に教わった(佐藤弓生)/片山廣子と松村みね子の狭間で→
●麦小舎に暮らす/片山広子というひと。→
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2008.2.16
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