一人でも本当に理解してくれる人がいるなら、人は、どんな状況を迎えようとも、きっと報われる。今はその一人に気づかないかもしれない。でも、きっとどこかにいて、自分を待っていてくれる。現に、密かに、優しく、熱く、見ていてくれているかもしれない。

この小説は、お取り潰しになるかならないかの瀬戸際の伊達藩が舞台だ。

そんな大変な時なのに、藩の重臣である原田甲斐は、動かない。静かに笑っているだけだ。一人、山に入って、狩りをしていることさえある。

「原田の胸中いかに?」であるが、実は、彼にはある考えがあった。藩を救う切り札。これを人に明かすことはできない。明かしてしまっては、目的を達し得ないことであった。徹底的に自分が悪役になって、家族や名誉、そして自らの命までもかなぐり捨てるというシナリオ。彼の静かな笑顔の裏には、苦悩が満ち満ちていたはずである。一人戦い続ける原田甲斐。

原田は語らない。藩を救うための動きを見せない彼に業を煮やし、親しくしていた者までが、一人また一人と彼の元を去っていく。家族とも別れた原田は、今や全くの一人である。

そして、いよいよ、原田は孤独な戦いを戦い抜いて、“乱心”というレッテルを貼られて一人死んでいくのであった。よって、伊達藩はお取り潰しを免れる・・・

物語は最終場面となり、宇乃という一人の少女が、原田を回想する。胸の内を一切語らなかった原田であったが、その苦悩を、この一人の少女は直感で分かっていたのであった。・・・原田は、ここで、完全に報われている。


『樅ノ木は残った』について

昭和29年7月20日から昭和31年9月30日まで「日本経済新聞」に連載され、残りは書き下ろされた山本周五郎(51〜)の作品。伊達騒動の最中、お取り潰しされることから藩を守った原田甲斐の物語。歴史上、原田甲斐は逆臣とされてきたがその定説を覆す内容になっている。昭和45年、NHK大河ドラマの原作にもなった。なお、本作は、山本が質店に勤めていた時代に発想され、また、馬込時代(昭和6-21年)にジャーマン通りにあった「みやこキネマ」で見た映画にヒントを得たともいわれている(※1)。作中の伊藤七十郎と尾崎士郎との相似性が指摘されている(※2)。山本周五郎の代表作の1つ講談社・新潮社・河出書房などで単行本化・文庫化・全集化されている。


原田甲斐は忠臣なのか、逆臣なのか?

山本周五郎は原田甲斐のことを自ら悪名を負って藩を救った人物として描いたが、歴史上の原田甲斐は、逆臣として家は滅ぼされ、子息4人孫2人に至るまで生命を断たれた人物である。

芝居や講談などでも極悪人として描かれることがあり、歌舞伎「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」では、仁木弾正(にっきだんじょう)という名で原田甲斐が登場。お家横領を企む極悪非道の妖術使いとして描かれているとのこと(※3)

原田甲斐のことも含め伊達騒動の史実に触れた本に、『伊達騒動実録』(大槻文彦)、『伊達安芸と寛文事件』(浅倉寅雄)などがあり、原田甲斐をモデルにした小説には『原田甲斐』(村上浪六 明治32年)、『原田甲斐』(中山義秀)などがある。

原田甲斐を扱った映画も幾編かあり(※4)、中には原田を忠臣として描いたものもある。その映画を見て山本周五郎はヒントを得たということなので、原田を忠臣に仕立てるアイデアは周五郎が最初ではないようだ。


山本周五郎について

10歳で小説家になることを決める
明治36(1903)年6月22日、山梨県北都留郡初狩村で生まれる。両親が未婚の状態での出産に祖父が猛烈な反対し、周五郎は祖父の姉の家の物置小屋でひっそりと生まれた。本名は清水三十六。明治40年(4歳)、初狩村を襲った山津波で、祖父母と叔父叔母と家を失い、父親は莫大な借金を背負う。東京北区豊島に移転。しかし、そこでも水害に遭い、横浜市中区久保町へ。周五郎は戸部小学校と西前小学校に通った。隣家には添田さつきの従妹の添田貞吉が住んでいた。小学校時代の周五郎は、貸本屋に通い、また図鑑を片手に一人野山を歩くことを好む、孤独を愛する少年だった。大正2年(10歳)、小学校4年のとき担任の教師から小説家になることを勧められ、その一言で進む道が決まる。

奉公先の主人と同じ名をペンネームにする
大正5年(13歳)、小学校を卒業し神奈川県立横浜第一中学校に入学するが、1学期だけで中退。周五郎は通学を希望したが、家の事情が許さなかった。隣家の添田貞吉が番頭とつとめていた質屋(銀座7丁目にあった「きねや」。山本周五郎商店という)の徒弟になる。店主の洒落斎 山本周五郎は、徒弟にまで学業の大切さを説く有徳の人で、周五郎は周五郎の元で(ややこしいが)、16歳頃から小説を書き始める。山本周五郎のペンネームは、封書の差し出し人欄に「山本周五郎方清水三十六」と書いたのを、雑誌編集者が「山本周五郎」がペンネームだと勘違いしたのに始まる。以後「山本周五郎」をペンネームとして使い続けたのは、店主への感謝の念があったからといわれる。大正12年(20歳)9月1日、関東大震災で「きねや」が閉鎖されたのを機に、周五郎は大阪に出て大阪朝日新聞社を訪れる。震災の体験記を書いて初めて稿料を得たという。しばらくして神戸市須磨区の級友の姉の婚家に宿を借り、タウン誌を発行する「夜の神戸社」の編集者になるが、5ヶ月で帰京、皇室尊崇主義に立脚する「日本魂」という雑誌の編集者になる。大正15年(23歳)、「文藝春秋」に発表した『須磨寺附近』で文壇に登場。以後、神戸から、新橋、千葉県浦安、虎ノ門、鎌倉腰越を経て、昭和6年(28歳)馬込にやって来るが、文壇での低迷が続いた。せっせと他の作家の代筆もやったという説もある(※5 ※6)。この頃、最初の妻となる土生きよいと結婚している。きよいには許婚がいたのに破棄して周囲の反対を押し切って周五郎と結婚したようだ(※7)

傑作・快作の連打
昭和17年(39歳)、「婦人倶楽部」などに発表した『小説日本婦道記』で文壇に認められる。先妻亡き後、戦後、きんを妻に迎え、横浜市中区本牧に移転。きんの影響もあって作品に伸びやかさが加わる。間門園(横浜市中区本牧)を仕事場に、火事場で拾った子どもを育てつつ自立していく少女を描いた『柳橋物語』(昭和21年 43歳)、宮本武蔵を滑稽に描いた『よじょう』(昭和27年 49歳)、歴史上悪者にされることが多い田沼意次を理想に燃える人物として描いた『栄花物語』(昭和28年 50歳)、公権力に抹殺されていく人物として由井正雪を描いた『正雪記』(昭和28年 50歳)、大悪人とされてきた原田甲斐の人物評価をひっくり返した周五郎の代表作『樅ノ木は残った』(昭和29年 51歳)と問題作・人気作を書きまくる。以後昭和30年代も衰えることがなかった。『赤ひげ診療』(昭和33年 55歳)、最高傑作ともいわれる『青べか物語』(昭和35年 57歳)、構想に40年を費やしたという『虚空遍歴』(昭和37年 59歳)。昭和37年以降は作品数が減るが、『さぶ』(昭和38年 60歳)などの佳作を生む。

書きまくった一生
「純文学は高校生にも書けるが、富裕な家に生まれ大学に学び、社会の中産階級以上しか経験していない人々には(大衆)小説は書けない」という周五郎の言葉に、彼の小説観が要約されている。弱者としての経験がない者が書く文学は否定した。権力や馴れ合いやヤクザ者が大嫌いで、貧しく、また弱い立場にある人、苦しむ人、それでも健気に困難に立ち向かっていく人たちを愛した。読者から認められればそれでよしということで、直木賞をはじめ賞の類はいっさい辞退。 また、戦時中軍からの報道班員としての従軍要請も辞退し、総理大臣と天皇陛下が主催する園遊会の招待がきても行かなかった。知り合いの葬儀にも顔を出さずに、ひたすらに書き続けた周五郎である。死の10時間前まで原稿用紙に向かっていたというが、とうとう63歳で息を引き取った(昭和42年)。墓所は、神奈川県朝比奈峠の鎌倉霊園(※8) )。


山本周五郎と馬込文学圏

昭和6年(28歳)1月15日、鎌倉の腰越から南馬込1丁目に越してくる。今井達夫松沢太平のすすめがあったようだ。文学的刺激を求めて馬込入りしただけあって、他の作家と盛んに交流。尾崎士郎らと大森相撲協会を起こし「馬錦」という四股名(しこな)で活躍した。「ああ言えば、こう言う」周五郎に「曲軒」とあだ名が付けたのは尾崎士郎だったようだ。

後年、周五郎は馬込文士村をモチーフにした『青の時代』という小説を手がけたが、ついに完成しなかった。馬込での面白可笑しい出来事もしょせん馬込の作家だけにしか通じない自己満足にすぎないとの見識に達し、筆を折ったといわれている。

周五郎の馬込時代は、昭和21年(42歳)2月まで。日本の15年戦争の期間とほぼ一致するとのこと。この間に、直木賞の辞退や妻のきよいの死があった。

馬込で 親しくしていた人物を以下に列記すると、

今井達夫
編集者と作家という関係だった。おそらく馬込文学圏で一番親しくしていた人物。周五郎が馬込入りしたのも今井の誘いによる。

●尾崎士郎
その軽さを少々軽蔑しつつも三日三晩一緒に飲む仲。

筒井敏雄
映画などを一緒に見た仲。

花岡朝生
周五郎の本の装丁を多く手がけ、親しくしていた(※9)

添田さつき
添田の従兄弟の添田貞吉とは横浜時代の隣同士であり、山本周五郎商店での同僚だったことは、上に書いた通り。昭和20年(40歳)、周五郎は妻のきよいを喪うが、戦時中ゆえ物資が不足して棺桶の手配ができない。自宅の本箱をばらして手製の棺桶を作って、きよいを乗せ、リヤカーで火葬場まで運んでいる。その時、添田さつきもリヤカーを一緒に曳いた。そういう仲だった(※10)

広津和郎
周五郎は広津のことを尊敬していた。

日吉早苗
日吉をからかった人に対し周五郎は大声で絶交宣言をしたとか(※11)

●石田一郎

●平松幹夫


参考文献・参考サイト

●『文壇資料 馬込文学地図』
(近藤富枝 講談社 昭和51年初版)
※1:P.210

●『山本周五郎 馬込時代』
(木村久邇典 福武書店 昭和58年初版)
※2で参照:P.73、※6で参照:P.36-38、
※7で参照:P.15-20、※10で参照:P131、※11で参照:P92-93

●『大田文学地図』
(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年初版)
※5で参照:P. 97-98

●『新潮日本文学アルバム 山本周五郎』
(2刷 昭和61年)※9で参照

●『周五郎ノート(2)』
※『山本周五郎小説全集 9 樅ノ木は残った』(新潮社 昭和44年15刷)付録

●『昭和文学作家史』 (毎日新聞社 昭和52年)
P.186-189

●『馬込文士村』
(産経新聞自由が丘支局 平成4)P.18

●『馬込文士村ガイドブック』
(大田区立郷土博物館編 平成8年) P.76-77

●『大田区史研究 史誌 32』
(大田区史編纂室 平成2年) 「講演録 山本周五郎の馬込時代」(木村久邇典)

●馬込村文芸の会 十年の歩み』
(発行者:大沢富三郎 平成6年) P.50

●『馬込文士村の作家たち』
(野村 裕 自費出版 昭和59年) P.54-65


おすすめサイト

松岡正剛の千夜千冊/山本周五郎『虚空遍歴』→

かぶきのはなし/歌舞伎のおはなし/第120話 面明かり→
※3で参照しました

文学者掃苔録図書館/山本周五郎→
※8で参照しました

日本映画データベース/原田甲斐→
※4で参照しました


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※当ページの最終修正年月日
2008.6.19