●『鼬(いたち)』・・・真船 豊(まふね・ゆたか)の初の戯曲集。昭和10年、双雅房から発行された。『鼬』のほか『鼠落し』『鉈(なた)』などの作品が収められている。『鼬』は、前年の昭和9年に脱稿、久保田万太郎の演出で創作座で舞台化されていた。人間観察の鋭さを賞賛された作品である。なお、後日譚の『山参道』という戯曲もある。
村の名家が借金を重ね、いよいよ屋敷を失おうとしている。住んでいるのは母親と娘。息子もいるが海外に出稼ぎに行っている。息子からの送金も途絶え、母娘は今日にも家を追い出されようとしている。
登場するのは、家の処理を任されている男、馬医者、女地主。彼らは借金の形に畳やら何やらまで母娘から奪おうとしている。もうボロ以外の何物もないが、そんなものまで剥ぎ取ろうとする。
そんな時、母親の義姉が村に帰ってくる。昔、この家を横取りしようとして村から追い出された女だ。今では工場を持つ資産家になっている。そんな彼女は、昔のことはケロリと忘れて、母娘や村人に対してえばりちらす。村の連中は彼女の黒い過去を知りつつも、キラキラ衣装の資産家然とした彼女に目の色を変えて取り入る。そして、やはり少しでも得をしようとするのであった。
古町(女地主) (おとりの袖に目をこすりつけて)へい、何つう美しい着物だべまア! これ何てもんだえ・・・・?
おとり(資産家になった母の義姉) あれまア、かか様、人絹だアよ・・・・
古町 はアア。(と、くどく目をこすりつけ)目が痛えやうに縞の込んだもんだなア・・・・なんぼかはア高えもんだべな?
おとり なアに、お前さん、こんなもの、ごまかしだわし、あつはは。
古町 (なほもしつこく寄りそつて)こんな立派なもんを着てまア、お前も大した身分になつたもんだア・・・・おらなんど一生はア着れるこんでねえわえ・・・・
おとり そんなに気に入つたんなら、かか様に今度送つて上げますべよ。
古町 (感動して手をこすつたり着物をさすつたりして)・・・・
全くさもしい限りである。あまりのさもしさに、思わず吹き出してしまう。
あ、この戯曲、悲劇だと思っていたが、ひょっとしたら喜劇かしら?
『鼬』を読むには
『鼬』(
双雅房 昭和10年)※もんぺ装
『鼬』(
双雅房 昭和11年)※普及版
『鼬』(
双雅房 昭和13年)※更紗絣装
『鼬・山参道』(文理書院 昭和41年)
などで読むことができる。その他、全集などに収められていることもある
■『鼬』が読める図書館
・国立国会図書館→(  を所蔵)
・東京都立図書館→( を所蔵)
・東京都大田区立馬込図書館→
真船 豊について
農民運動に身を投じる
明治35年(1902)年 2月16日、福島県の現郡山市で生まれる。北海道に養子に出されるが、しばらくして実家に戻る。早稲田大学在学中、「早稲田文学」に発表した『寒鴨』『村はずれ』が秋田雨雀に激賞され、戯作の道に入る決意をする。大正12年(21歳)、社会主義の影響もあり、また自分を鍛えるため、学業を捨て北海道に渡り、牧夫となって実業に携わった。昭和4年(27歳)、四国で農民運動に参加する。
「生きることの苦さ」を方言で綴る
昭和6年(29歳)、『島の嵐』が前進座で上演され評判となり、座付作家になる。昭和9年(32歳)、「劇文学」に掲載された『鼬(いたち)』で成功を収め、以後、一流誌に次々と作品を発表、人気戯曲作家になった。初期の作品は家族内における(生きていく上で避けて通れなかった)醜い争いを描いたものが多かったが、後に人間の内面の美しさを描いた作品が増えていった。豊かなニュアンスを持つ方言に着目し、作品に積極的に取り入れるといった先駆的な仕事をした。真船が作品に取り入れた方言は、ある特定の方言ではなく、彼の創作した「方言の共通語」のようなものだという(注1)。
昭和14年(37歳)頃から、設立したばかりの文学座で多くの真船作品が舞台化。久保田万太郎の演出によるものが多かった。
この頃から中国を旅するようになり、日本や日本人に対する批判が作品に込められるようになった。終戦の昭和20年には北京にいたという。
戦後引き上げて、北鎌倉の円覚寺帰源院に起居(注2)。文学座の他に俳優座(上演脚本数3本。三島由紀夫らと一緒に演出している)でも作品が取り上げられ、また、ラジオドラマ(『なだれ』など)・小説・児童文学も手がけた。「真船豊書斎劇場」を主宰(注3)。
昭和52(1977)年 8月3日、75歳で死去する。現在、祥雲寺(東京都港区広尾)に眠る(
)。
注1:『座談会 昭和文学史 二』参照
注2-3:Webサイト「福島県立図書館 児童図書研究室」参照
真船 豊と馬込文学圏
昭和6〜7年(29〜30歳)、新婚直後に住んだのが南馬込5丁目。『鼬』を書いた頃(昭和10年頃)には山王二丁目に移転している。一時南馬込に戻って、また山王に戻ってくる。 昭和13年(36歳)、妻の病状が思わしくなく、気候温暖の神奈川県藤沢の鵠沼に転居した。馬込文学圏にいたのは6〜7年間。
南馬込も山王もかつて大森区に属し、またそれらの地域は大森駅を利用することから、単に“大森”とくくられることが多い。 その頃の真船は、「演芸画報」で月々15円得ていたことから、編集者から“大森十五”なるペンネームをもらっていた。病気がちの妻と一人息子禎を抱え、馬込文学圏時代、真船は、筆一本で身を立てる決意を固くした。
馬込文学圏の真船豊関連地図→
参考文献
●『大田文学地図』
(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年)P.82-84
●『馬込文士村の作家たち』
(野村 裕 自費出版 昭和59年) P.229-235
●『馬込文士村ガイドブック』
(大田区立郷土博物館編 平成8年)P.64
●『座談会 昭和文学史 二』
(井上ひさし・小森陽一 編 集英社 平成15年) P.196
●『大森区詳細図』
(東京地形社 昭和8年)
参考サイト
●早稲田と文学/真船
豊→
●福島県立図書館>児童図書研究室>福島の児童文学者>真船豊→
●文学座/文学座とは/過去の上演作一覧→
●劇団俳優座公式Webサイト→
●こおりやま文学の森>真船豊→
謝辞
M.T様から墓所の情報と、励ましのお言葉をいただきました。ありがとうございます。
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2008.2.16
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