(C) Designroom RUNE
総計- 本日- 昨日-

{column0}

真船豊の『鼬(いたち)』を読む(悲劇的喜劇)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

村の名家が借金を重ね、いよいよ屋敷を奪われようとしている。 住んでいるのは母と娘。息子もいるが海外に出稼ぎに行っている。 息子からの送金も途絶え、母娘は今日にも家を追い出されそうだ。

登場するのは、家の処理を任された馬医者と、女地主の古町や、村人たち。 彼らは借金の形にボロ畳まで母娘からはぎ取ろうとする。

そんな時、母の義妹のおとりが村に帰ってくる。 昔、この家を横取りしようとして村から追い出された札付きだ。 今では工場を持つ資産家だ。 そんな彼女は、昔のことはケロリと忘れたかのように、母娘や村人に対して悠然と振る舞う。 村の人たちは彼女のドス黒い過去を知りながらも、キラキラ衣装の資産家然とした彼女に目の色を変えて取り入るのだった。

古町 (おとりの袖に目をこすりつけて)へい、何つう美しい着物だべまア! これ何てもんだえ・・・・?

おとり あれまア、かか様、人絹だアよ・・・・

古町 はアア。 (と、くどく目をこすりつけ) 目が痛えやうに縞の込んだもんだなア・・・・なんぼかはア高えもんだべな?

おとり なアに、お前さん、こんなもの、ごまかしだわし、あつはは。

古町 (なほもしつこく寄りそつて) こんな立派なもんを着てまア、お前も大した身分になつたもんだア・・・・おらなんど一生はア着れるこんでねえわえ・・・・

おとり そんなに気に入つたんなら、かか様に今度送つて上げますべよ。

古町 (感動して手をこすつたり着物をさすつたりして)・・・・(真船 豊『鼬』 より)

と、あまりのさもしさに笑ってしまう。 『鼬』 は悲劇かと思ったが、ひょっとしたら喜劇なのかも?


『鼬』について

真船豊 『鼬・山参道』

昭和9年、 「劇文学」 の創刊号に掲載された真船 豊(32歳)の戯曲。 真船が当地(東京都大田区南馬込五丁目11-4 map→)にいた頃の作品。 正宗白鳥中村武羅夫から激賞され出世作になる。久保田万太郎の演出で創作座の旗揚げで公演され、人間観察の鋭さに驚きの声が上がる。 近年にいたるまで複数の劇団が取り上げ続ける古典的名作。初の戯曲集「鼬」には、『鼬』のほか、その10年後を描いた『山参道』も収録されている。今度はおとりが母(劇団新派で花柳章太郎が初演)のような立場になる。

民藝『鼬』公演(平成元年)プログラム。母(おかじ)を北林谷栄、おとりを斎藤美和、古町を入江杏子 青年劇場『鼬』チラシ
民藝『鼬』公演(平成元年)プログラム。母(おかじ)を北林谷栄、おとりを斎藤美和、古町を入江杏子 青年劇場のチラシ(平成20年公演)
東京ノーヴィ・レパートリーシアター第2スタジオのチラシ『鼬』チラシ シス・カンパニー『鼬』公演(平成26年)プログラム。おとりを鈴木京香、母(おかじ)を白石加代子
東京ノーヴィ・レパートリーシアター第2スタジオのチラシ(平成25年公演) シス・カンパニー『鼬』公演(平成26年)プログラム。おとりを鈴木京香、母(おかじ)を白石加代子

真船 豊について

真船豊 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:こおりやま文学の森/郡山ゆかりの作家/真船豊→ 真船豊 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:こおりやま文学の森/郡山ゆかりの作家/真船 豊→

空想癖の強い腕白な少年
明治35年2月16日(1902年)、福島県郡山市 湖南町 こなんまち map→の造酒屋で生まれる。 体は小さいがすばしこく、上級生も従えて腕白の限りを尽くした。 反面、空想癖が強く、妄想におびえることも。 歌唱に長け、音楽家を志すが、片耳の疾病を理由に断念。

放浪と人間観察
13歳の頃、養子として北海道に行くが、養家の変心により実家に戻る。 大正4年(14歳)上京、市ケ谷辺りに住んで早稲田実業で学ぶ。 東都中等学校剣道大会で一等を取る。友人や兄の影響で歌舞伎、新派劇、講談、寄席、西洋音楽、哲学書に熱中。早稲田大学英文科に進み、シングなどのアイルランド文学に親しむ。 師事したのはシェークスピア研究家の横山有策。 「早稲田文学」 に発表した戯曲 『寒鴨』 『村はずれ』 を秋田雨雀に激賞された。

大正12年(21歳)、卒業間際に早稲田を退き、北海道で牧夫となり、感化院「家庭学校」(北海道紋別郡 遠軽町 えんがるちょう 留岡34 map→)で子どもたちと起居。 四国で農民運動に参加し、貧しい農家を熱心に訪ね回わったこともあった。 その後「大阪毎日新聞」の記者になるが挫折、その後筆耕の賃仕事をしながら戯曲を書く。

「人間風刺」へ
昭和9年(32歳)、戯曲『鼬』を書く。 以後、金貸しの悲喜劇を描いた『鼠落し』 、 ベートーヴェンのピアノ・ソナタの構成を大胆に取り入れた『鉈』 、表面的な面白さを削ぎ落とした『孤舎』、 「気が変なんじゃないか」 とまで酷評された『鬼怒子』、左翼思想と美への憧れのせめぎ合いを書いた『山の湖』などの戯曲を書き、花柳章太郎市川左団次千田是也などから支持された。 方言も果敢に取り入れる。風刺劇『遁走曲』を書く。

精神の安定を得て、新境地へ
戦時体勢下は(無難に?)、人間の美しさ描く。北満州開拓団について書いた『北斗星』は当局から一部削除を命じられたが応じなかった。戦中、隣組からの圧迫を逃れ、中国に避難。新京(満州の首都)で会った甘粕正彦(大杉 栄を虐殺したとされる男)の寂しい印象を戯曲『赤いランプ』に書く。 北京で終戦を迎える(43歳)。

戦後、青山の家は空襲で焼けたので北鎌倉の円覚寺の離れに住む。 敗戦の思いを吐き出した『中橋公館』を書く。「真船 豊書斎劇場」を主宰。

昭和52(1977)年 8月3日、75歳で死去。 墓所は、祥雲寺(東京都港区広尾)( )。

■ 真船 豊評
・「 しらふの中原中也」(小林秀雄

真船豊 『孤独の徒歩』。自伝
真船 豊 『孤独の徒歩』。自伝

真船 豊と馬込文学圏

昭和6(29歳)、神田神保町の版画屋の娘と駆け落ちさながらに当地(東京都大田区南馬込五丁目11-4 map→)に所帯をもつ。 翌年長男のが誕生。 雑誌「演芸画報」に書いて月々15円稼いだので「大森十五」と名のる。妻が出産後に病み、子どもの世話と家事をしながら、夜を徹して『鼬』を書いた。当地の山王二丁目にも住み、佐藤観次郎尾﨑士郎と親交。東馬込二丁目(「東馬込児童公園」(東京都大田区東馬込二丁目17-10 map→)あたり))にも住んだ。当地には、昭和13年5月(36歳)に神奈川県藤沢鵠沼に転居するまでの約7年間住んだ。

病身の妻を診てもらったのが、大森駅近くにある平井医院。後年、自身が神経衰弱になった時も鵠沼からはるばる通ってきた。

作家別馬込文学圏地図「真船 豊」→


参考文献

●『孤独の徒歩』(真船 豊 新制社 昭和33年発行)P.165-168 ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.82-84 ●『馬込文士村の作家たち』(野村 裕 自費出版 昭和59年発行)P.229-235 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(東京都大田区立郷土博物館編・発行 平成8年発行)P.64 ●座談会 『昭和文学史 二』(井上ひさし小森陽一編 集英社 平成15年発行)P.196 ●『大森区詳細図』(東京地形社 昭和8年) ●『馬込文士村 〜あの頃、馬込は笑いに充ちていた〜(特別展カタログ)』(制作・発行:東京都大田区立郷土博物館 平成26年発行)P.91(東馬込二丁目から出したハガキの住所)


参考サイト

早稲田と文学/真船 豊→ ●福島県立図書館/児童図書研究室/福島の児童文学者/真船 豊→ ●こおりやま文学の森/真船 豊→ ●神奈川近代文学館 /web資料室/神奈川文学年表/昭和11年~20年→ ●ウィキペディア/北海道家庭学校(平成30年8月27日更新版)→ 


謝辞

・ A.S様から、「鼬」の上演情報と誤記のご指摘をいただきました。 ありがとうございます。

・ M.T様から、墓所の情報と励ましのお言葉をいただきました。 ありがとうございます。


※当ページの最終修正年月日
2020.7.11

この頁の頭に戻る