村の名家が借金を重ね、いよいよ屋敷を失おうとしている。住んでいるのは母親と娘。息子もいるが海外に出稼ぎに行っている。息子からの送金も途絶え、母娘は今日にも家を追い出されようとしている。

登場するのは、家の処理を任されている男、馬医者、女地主。彼らは借金の形に畳やら何やらまで母娘から奪おうとしている。もうボロ以外の何物もないが、そんなものまで剥ぎ取ろうとする。

そんな時、母親の義姉が村に帰ってくる。昔、この家を横取りしようとして村から追い出された女だ。今では工場を持つ資産家になっている。そんな彼女は、昔のことはケロリと忘れて、母娘や村人に対してえばりちらす。村の連中は彼女の黒い過去を知りつつも、キラキラ衣装の資産家然とした彼女に目の色を変えて取り入る。そして、やはり少しでも得をしようとするのであった。

古町(女地主) (おとりの袖に目をこすりつけて)へい、何つう美しい着物だべまア! これ何てもんだえ・・・・?

おとり(資産家になった母の義姉) あれまア、かか様、人絹だアよ・・・・

古町 はアア。(と、くどく目をこすりつけ)目が痛えやうに縞の込んだもんだなア・・・・なんぼかはア高えもんだべな?

おとり なアに、お前さん、こんなもの、ごまかしだわし、あつはは。

古町 (なほもしつこく寄りそつて)こんな立派なもんを着てまア、お前も大した身分になつたもんだア・・・・おらなんど一生はア着れるこんでねえわえ・・・・

おとり そんなに気に入つたんなら、かか様に今度送つて上げますべよ。

古町 (感動して手をこすつたり着物をさすつたりして)・・・・

全くさもしい限りである。あまりのさもしさに、思わず吹き出してしまう。

あ、この戯曲、悲劇だと思っていたが、ひょっとしたら喜劇かしら?


『鼬』について

いたち。真船 豊(まふね・ゆたか)の初の戯曲集。同名戯曲の他、「鼠落し」「鉈(なた)」「山鳩」「狐舎」が収められている。昭和10年、双雅房から発行された。「鼬」は、前年の昭和9年に脱稿されたもの。久保田万太郎の演出で創作座で舞台にのり、人間観察の鋭さに賞賛の声が集まった。昭和10年発行のものは“もんぺ装”で、昭和13年発行のものは“更紗絣装”(共に双雅房)。昭和11年には普及版、昭和41年には、「山参道」(「鼬」の後日譚)と一緒になった『鼬・山参道』(文理書院)も出た。

真船豊『鼬』
上がもんぺ装の箱と本体、
下が更紗絣装の箱と本体


真船 豊について

農民運動に身を投じる
明治35年2月16日、福島県の現郡山市で生まれる。北海道に養子に出されるが、しばらくして実家に戻る。早稲田大学在学中、「早稲田文学」に発表した『寒鴨』『村はずれ』が秋田雨雀に激賞され、戯作の道に入る決意をする。大正12年(21歳)、社会主義の影響もあり、また自分を鍛えるため、学業を捨て北海道に渡り、牧夫となって実業に携わった。昭和4年(27歳)、四国で農民運動に参加する。

「生きることの苦さ」を方言で綴る
昭和6年(29歳)、『島の嵐』が前進座で上演され評判となり、座付作家になる。昭和9年(32歳)、「劇文学」に掲載された『鼬(いたち)』で成功を収め、以後、一流誌に次々と作品を発表、人気戯曲作家になった。初期の作品は家族内における(生きていく上で避けて通れなかった)醜い争いを描いたものが多かったが、後に人間の内面の美しさを描いた作品が増えていった。豊かなニュアンスを持つ方言に着目し、作品に積極的に取り入れるといった先駆的な仕事をした。真船が作品に取り入れた方言は、ある特定の方言ではなく、彼の創作した「方言の共通語」のようなものだという(注1)
昭和14年(37歳)頃から、設立したばかりの文学座で多くの真船作品が舞台化。久保田万太郎の演出によるものが多かった。
この頃から中国を旅するようになり、日本や日本人に対する批判が作品に込められるようになった。終戦の昭和20年には北京にいたという。
戦後引き上げて、北鎌倉の円覚寺帰源院に起居(注2)。文学座の他に俳優座(上演脚本数3本。三島由紀夫らと一緒に演出している)でも作品が取り上げられ、また、ラジオドラマ(『なだれ』など)・小説・児童文学も手がけた。「真船豊書斎劇場」を主宰(注3)
昭和52(1977)年 8月3日、75歳で死去する。現在、祥雲寺(東京都港区広尾)に眠る( )。

注1:『座談会 昭和文学史 二』参照
注2-3:Webサイト「福島県立図書館 児童図書研究室」参照


真船 豊と馬込文学圏

昭和6〜7年(29〜30歳)、新婚直後に住んだのが南馬込5丁目。『鼬』を書いた頃(昭和10年頃)には山王二丁目に移転している。一時南馬込に戻って、また山王に戻ってくる。 昭和13年5月(36歳)、妻の病状が思わしくなく、気候温暖の神奈川県藤沢の鵠沼に転居した。馬込文学圏にいたのは6〜7年間か。

南馬込も山王もかつて大森区に属し、またそれらの地域は大森駅を利用することから、単に“大森”とくくられることが多い。 その頃の真船は、「演芸画報」で月々15円得ていたことから、編集者から“大森十五”なるペンネームをもらっていたという。病気がちの妻(昭和14年死去)と一人息子を抱え、馬込文学圏時代、真船は、筆一本で身を立てる決意を固くした。

馬込文学圏の真船豊関連地図→


参考文献

・『大田文学地図』
 (染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年)P.82-84

・『馬込文士村の作家たち』
 (野村 裕 自費出版 昭和59年) P.229-235

・『馬込文士村ガイドブック』
 (大田区立郷土博物館編 平成8年)P.64

・『座談会 昭和文学史 二』
 (井上ひさし・小森陽一 編 集英社 平成15年) P.196

・『大森区詳細図』
 (東京地形社 昭和8年)


参考サイト

早稲田と文学/真船 豊→

福島県立図書館/児童図書研究室/福島の児童文学者/真船豊→

文学座/文学座とは/過去の上演作一覧→

劇団俳優座公式Webサイト→

こおりやま文学の森/真船豊→

神奈川近代文学館 /web資料室/神奈川文学年表/昭和11年〜20年→


謝辞

M.T様から墓所の情報と、励ましのお言葉をいただきました。ありがとうございます。


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※当ページの最終修正年月日
2009.2.15