●『聖家族』・・・堀 辰雄(26歳)の作品。昭和5年「改造」に掲載され、昭和7年2月20日、江川書房から500部限定で発行された。その後、昭和11年には野田書房から80部限定で発行される。芥川龍之介の死を巡る周囲の人物の心理が緻密に描かれている小説。先行して書かれた『窓』『軽井沢にて』『軽井沢風景』がこの作品の習作で、ラディゲの『ドルジェル伯爵の舞踏会』の影響も受けているといわれる。

江川書房の『聖家族』を手にとってみた。白い外箱には、絵もなければ模様もなく、書名すらない。中身を抜き出すと、厚手のカバーでくるまれた本が出てくる。しかし、そのカバーにも何も書かれていないのだ。さらにいえば、表紙も裏表紙も背も、どこもかしこも真っ白け。なんという大胆な本だ。本屋に並んでも客は何の本だが分からないし、いや、箱から本を抜き出しても、それでもまだ分からない!

この『聖家族』は、次の一文で始まる。

死があたかも一つの季節を開いたかのやうだった。

その「死」がそれまで疎遠だった人物たちを急速に親密にさせていくというストーリーだ。心理が絡み合いながら微妙に牽制し合う。静かな朝の、さざ波が作る綾のように繊細で、美しい。

この小説にはモデルがあるようだ。死んでしまった九鬼(くき)という男はどうやら芥川龍之介で、扁理(へんり)という少年は作者の堀 辰雄、細木という婦人は片山廣子。そして、細木の娘といえば宗 瑛である。

しかし、モデルがあるというのに、小説は透明だ。肉体を持たない者どうしが涼しげに語っているような、そんな感じなのだ。風景もどことなくモノトーン。

これはその「死」を取り巻く周囲の心象だろうか。

『聖家族』の装丁はあくまでも白が強調されていた。小説を読み終えて思うことは、書名すらないこの本は、装丁において極度に要素が殺ぎ落され、そこに生まれた質感だけの透明感は、小説そのものと見事に呼応しているということだ。

ちなみに、この装幀は、作者の堀 辰雄自らが手がけたものだという。脱帽。

『聖家族』の外箱
 
箱から中身を出したところ
 

扉。『聖家族』とある

※写真の本は、 特選 名著復刻全集 江川書房版『聖家族』(日本近代文学館 発行)

 

『聖家族』を読むには、

『聖家族』(江川書房 昭和7年)
『聖家族』(野田書房 昭和11年)
『聖家族(昭和名作選集 第8巻)』(新潮社 昭和14年)
『聖家族 (ジュニア版日本の文学 50) 』(集英社 昭和50)
などで読むことができる。その他、全集などに収められていることも多い。

■『聖家族』が読める図書館
明治大学図書館→( 日本近代文学文庫にを所蔵)
国立国会図書館→を所蔵)


堀 辰雄について

複雑な家族関係の中で育つ
ほり・たつお。明治37(1904)年12月28日、東京の麹町で、旧広島藩士 堀浜之助と西村志気(しげ)の間に庶子として生まれる。浜之助の正妻こうに子がなかったため、嫡子として届けられた。2年後、こうの上京を機に、志気と辰雄は堀家を出る。2年後、志気は辰雄を連れて、彫金師上条松吉と再婚、東京の向島に住んだ。松吉が辰雄の育ての父親となる。

叙情を重んじた作風を見出す
大正10年(17歳)、東京第一高等学校に入学。同期に小林秀雄深田久弥がいた。寮で同室だった神西 清に勧められて読んだ萩原朔太郎の『月に吠える』には特に深い感銘を受ける。大正14年(21歳)、帝国大学(英文科だが仏語が仏文科の学生より堪能で教官を驚かせた)に入学。中野重治窪川鶴次郎佐多稲子らと『驢馬』を創刊。アポリネールやジャン・コクトを耽読しつつ、小品を発表した。『驢馬』のメンバーの大方が政治色の強い作品を書く中、彼一人、時代背景や生活臭を排除し、叙情性を重んじた。経験したことに題材を取りながらも、事実をそのまま書くのではなく、文学的に昇華させて書く、そういった掘の特徴的な手法が、この頃すでに見られる。

同人誌の創刊と闘病の中で生まれた小説
昭和3年(24歳)、19歳の時に患った肋膜炎を再発して重体となる。掘の一生涯の持病となった肺結核が、その時すでに始まっていたという見方もある。大学は休学、経済的な逼迫も折り重なった。その中で書かれた『不器用な天使』が彼の文壇デビュー作となった。誹謗の声も多かったが、これにより新進作家として認められるようになる。
昭和4年(25歳)、同人誌「文学」に参加。翌年、『聖家族』を脱稿。この作品は、多くの作家から絶賛され、辰雄の文壇での地位が確立された。昭和8年(29歳)、「四季」を創刊。同年、軽井沢ホテルで『美しい村』を執筆中、同病の矢野綾子に出会う。翌年、婚約。更に次の年、綾子に付き添って富士見高原療養所に入った。しかし綾子は同年12月6日に亡くなってしまう。彼女との出会いと別れは、堀の代表作『風立ちぬ』に結実した。
昭和12年(33歳)、加藤多恵子と出会う。当時不治の病とされた結核を患っている堀と結婚することは、多恵子にとって一生の看病生活を意味していた。多恵子を熱意を持って説得したのは死んだ綾子の父親だったという。翌年、二人は結婚する。

戦前・戦中・戦後と姿勢を貫く
時代と政治の臭いを作品から排除した堀だったが、戦時中、密やかな表現で、戦争に対する明確な姿勢を示した。

あの抒情的といわれ、「四季派・カルイサワ・微熱の詩」とモダニストの詩人たちに蔑視されていた堀の精神が、(・・・中略・・・)むしろ、主知派の詩人たちが転向し、戦争体制に協力していった時期に、堀辰雄は逆に、自己の知識人たる自覚と責任を果たそうとした。そういった作家堀辰雄の人間像が無視されてはなるまい。
(『評伝 堀辰雄』P.179)

折口信夫との親交を通じ古典に傾倒、「水のうへ」という作品の創作ノートが作られた。古代軍人(防人)の哀しさが織り込まれる予定だったという。

闘病の生涯を49歳で閉じる
戦後、持病の肺結核が悪化。昭和28(1953)年5月27日、突然喀血が始まり、28日午前1時40分死去。枕元には、多恵子とたまたま訪れていた矢野良子(綾子の妹)がいた。
享年49歳。現在、多摩霊園で眠っている( )。


堀辰雄と馬込

堀 辰雄自身は馬込文学圏に住まなかったが、彼ほど多くの馬込作家と行き来していた人も少ない。

まず大正12年(20歳)、小説修行のために弟子入りを申し込んだ先が室生犀星。犀星を通してた芥川龍之介片山廣子とも出会う。そして、片山の娘である総子(宗瑛)に堀は恋するのであった。上で取り上げた『聖家族』にも掘と宗 瑛の関係を示唆する箇所が出てくるし、『ルウベンスの偽画』『物語の女』『かげろうの日記』『姥捨』『曠野』『菜穂子』『楡の家』『美しき村』などにも芥川龍之介・片山広子・宗 瑛と思しき人物が登場する。

あと、『驢馬』時代には佐多稲子と交流があった。堀は佐多にフランス語を教えていた。佐多は向島の堀の家まで通っていたという。

また、「四季」を通して馬込作家の三好達治立原道造津村信夫萩原朔太郎中原中也、竹村俊郎、室生犀星らと交流した。

堀と加藤多恵子さんとの結婚は媒酌が室生犀星で、式場は目黒雅叙園だった。式には、立原道造や室生朝子(犀星の娘。小説家)も参列し、式後、堀と多恵子さんは大森ホテルに泊まったそうだ。


参考文献

●『評伝 堀 辰雄』
(小川和佑 六興出版 昭和53年)

●『大田文学地図』
(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年)

●『特選 名著復刻全集 江川書房版 聖家族』
(近代文学館 昭和51年)

●『大森 犀星 昭和』
(室生朝子 リブロポート 昭和63年)


参考サイト

●明治大学図書館ホームページ/図書の譜/明治大学図書館紀要/純粋造本〜江川書房と野田書房→

文学者掃苔録図書館>堀 辰雄→

松岡正剛の千夜千冊/641夜 『風立ちぬ』堀辰雄→


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※当ページの最終修正年月日
2007.11.20