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堀辰雄の『聖家族』を読む(白い本) - 馬込文学マラソン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『聖家族』 は、最初、著者の堀辰雄による装丁で、江川書房から出版された。

白い固まりといった小さな本だ。堅くて白い外箱には、タイトルらしい文字の一つもない。 本屋に平積みされても何の本だが分からないだろう。おそらく、この本は、売るために作られたのではないのだ。

おそらく、“誰か”に“届ける”ために作られたのだ。著者が署名用のペンにこだわって、新橋の伊東屋や丸善などにまで足を伸ばしていろいろ試行錯誤したことにも表れている。

堀辰雄の署名
『聖家族』の署名

外箱から本を抜き出してみる。 まだ真っ白だ。 表にも裏にも背にも何も書かれていない。 そして、厚手のカバーを開くと、ようやく本体が出てきて(カバーと本体が分離している)、太い明朝体で 「聖家族」 とある。

書き出しは、

死があたかも一つの季節を開いたかのやうだつた。

の一行。

九鬼くき芥川龍之介、弟子の扁理 へんりは著者の堀辰雄細木さいき 夫人は片山広子、その娘の絹子は片山総子がモデルのようだ。九鬼の死後、扁理は、九鬼を通して知り合った細木母娘と、それまでと違った精神的な関係を結んでいく。扁理は、しだいに、知的で快活で美しい二人の女性を、ラファエロの名画 「聖家族」 の母子像になぞらえて、偶像化していくのだった。

心の静かな動きをたんたんと書いたこの小説には、“白い本”であることがぴったしのようだ。


『聖家族』 について

堀辰雄の初期の代表作。 昭和5年(26歳)、「改造」に掲載された。 ラディゲの心理小説の影響を受けたとされる。先行して書かれた 『窓』 『軽井沢にて』 『軽井沢風景』 『ルウベンスの偽画』 は、 『聖家族』 に連なる要素を持っている。

昭和7年2月20日、江川書房から500部限定で発行。 その後、野田書房、新潮社、集英社などからも出版される。

■ 作品評
・ 純潔な花びらがわずかに花開こうとする光景 (平野謙
・ 現実の内部を示してくれた最初の新しい作品 (横光利一
・ フランス流の心理小説の微細画 (中村真一郎

堀辰雄 『燃ゆる頬・聖家族 (新潮文庫)』
堀辰雄 『燃ゆる頬・聖家族 (新潮文庫)』

堀辰雄について

堀辰雄、信濃追分にて。昭和9年 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用しました 出典 : 『堀辰雄(新潮日本文学アルバム)』。撮影:丸岡明夫人の弟・山川益雄
堀辰雄、信濃追分にて。昭和9年 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用しました 出典 : 『堀辰雄(新潮日本文学アルバム)』。撮影:丸岡明夫人の弟・山川益雄

複雑な家庭事情
明治37(1904)年12月28日、東京麹町で生まれる。 父親は旧広島藩士の堀浜之助で、妻は西村 志気しげ 。 庶子として生まれるが浜之助の正妻こうに子がなかったため、嫡子として届けられた。 しかし、こうの上京を機に、志気と辰雄は堀家を出て、2年後、志気は彫金師上条松吉と再婚、東京向島に住んだ。 松吉が辰雄の育ての父親となる。

抒情精神を貫く
大正10年(17歳)、東京第一高等学校に入学。 同期に小林秀雄深田久弥がいた。 寮で同室だった神西清に勧められて読んだ萩原朔太郎の 『青猫』 に感銘を受ける。 数学好きのを文学に手引きしたのは神西だった。 大正12年(19歳)、東京府立第三中学校(現・両国高校)の校長広瀬ゆう室生犀星を紹介され、犀星を通して芥川龍之介に師事する。 大正14年(21歳)、帝国大学国文科に入学。 仏文科の学生より仏語ができた。 スタンダール、メリメ、アナトール・フランス、アンリ・ド・レニエ、ジッド、プーシキンを読む。 大正15年(22歳)、中野重治窪川鶴次郎佐多稲子らと 「驢馬」 を創刊。 コクトー、アポリネールの翻訳や詩を発表する。 「驢馬」 のメンバーの大方が政治色の強い作品を書く中、一人時代背景や生活臭を排除し、叙情を重んじる。 経験したことを題材にしながらも、事実そのままではなく、文学的に昇華させて書く手法を取る。

昭和3年(24歳)、19歳の時からの肋膜炎を再発して重体となる。 一生涯の持病となる肺結核の兆候も現れる。 大学を休学し、経済的にも逼迫。 そんな中で書かれた 『不器用な天使』 が文壇デビュー作となる。 誹謗の声が多かったが、新進作家として認められるようになった。

昭和4年(25歳)、同人誌 「文学」 に参加。 翌年、 『聖家族』 を脱稿。 多くの作家から絶賛され、文壇に地位を得る。 プルーストを紹介。 昭和8年(29歳)、「四季」 を創刊、抒情詩の拠点となる。 昭和16年から保田与重郎などが参加し浪曼主義的傾向を強めたが、の自主精神によって大きくは流されなかった。 抒情的な作風は社会派の作家から 「微熱の文学」 と揶揄された。 戦中、社会派の多くが戦争容認に傾いたが、は抒情精神を貫きそうならなかった。

昭和8年(29歳)、軽井沢で 『美しい村』 を執筆中、同病の矢野綾子に出会った。 翌年、婚約。 翌々年、綾子に付き添って富士見高原療養所に入所。 綾子は昭和10年12月6日に亡くなる。 彼女との出会いと別れは、代表作 『風立ちぬ』 に結実した。 この頃、モーリャックが提唱した 「客観的描写の背後に作家の人生が隠れている小説」 に感化され、私小説からの脱皮を目指していた。

『風立ちぬ』 が終盤にさしかかった頃から、「日本の古い美しさ」 に心惹かれ、京都を巡り、『伊勢物語』 などの古典に親しむようになった。 『蜻蛉日記』 をもとに 『かげろふの日記』、 『更級日記』 をもとに 『 姨捨 おばすて 』、 『今昔物語』 をもとに 『 曠野 あらの 』 を書く。 折口信夫と親交し、大きな影響を受けた。

闘病の48年間
戦後、持病の肺結核が悪化。 昭和28(1953)年5月27日、突然喀血が始まり、翌28日午前1時40分死去する。 枕元には、多恵子夫人とたまたま訪れていた矢野良子※1がいた。 満48歳だった。 墓所は多摩霊園( )。

堀辰雄
・ 「十数年にわたる病苦と格闘した勇敢な人」(室生犀星

新潮日本文学アルバム『堀辰雄』 小川和佑『堀辰雄 その愛と死』
新潮日本文学アルバム『堀辰雄 小川和佑『堀辰雄 その愛と死』

堀辰雄と馬込文学圏

は馬込文学圏に住んでいないが、当地の複数の作家と深いつながりがあり、当地に何度か足を運んだ。

大正12年(20歳)、小説修行のために弟子入りしたのが田端時代の室生犀星(34歳)で、犀星をつうじて芥川龍之介(31歳)片山広子(45歳)とも出会う。 片山の娘(総子=宗瑛)とは友人関係にあった。 は彼女に友人以上の感情をもったようだ。 上で紹介した 『聖家族』 で登場する 細木 さいき 夫人は片山、絹子は総子がモデルのようだ。 ほかにも、 『ルウベンスの偽画』 『物語の女』 『かげろうの日記』 『 姨捨 おばすて 』 『 曠野 あらの 』 『菜穂子』 『にれ の家』 『美しき村』 などの小説にも、芥川片山総子とおぼしき人物が登場する。

驢馬」 時代(昭和元年頃 22歳頃)、は向島の家で、佐多稲子(22歳)に仏語を教えている。

四季」 では、三好達治立原道造津村信夫萩原朔太郎中原中也竹村俊郎室生犀星ら馬込文学圏ゆかりの作家と交流があった。

昭和13年(33歳)、加藤多恵子と雅叙園(東京目黒)で式を挙げた。媒酌が犀星立原室生朝子も参列した。 式後、二人大森ホテルに宿泊。

作家別馬込文学圏地図 「堀辰雄」→


脚注

※1 : 矢野綾子の妹。 富士見高原の病院で綾子をともに看取ったと良子は、その後も深い心のきづなで結ばれた。と加藤多恵子との結婚をすすめたのも矢野家(綾子の父親透と良子)の人々だったという


参考文献

●参1: 『評伝 堀辰雄』 (小川和佑 六興出版 昭和53年) P.99-101、P.161、P.179 ●参2:新潮日本文学アルバム 『堀辰雄』(新潮社 昭和59年発行) P.7、P.19-28 ●参3: 『物語の娘 宗瑛を探して』(川村湊 講談社 平成17年発行) P.124-125 ●参4: 『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行) P.139-140 ●参5:特選 名著復刻全集 『聖家族(江川書房版)』 (堀辰雄 日本近代文学館 昭和51年発行) ●参6: 『大森 犀星 昭和』(室生朝子 リブロポート 昭和63年発行) P.237-238


参考サイト

明治大学図書館ホームページ/図書の譜/明治大学図書館紀要/純粋造本〜江川書房と野田書房→

鬼火/やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇/やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注→

文学者掃苔録図書館/堀辰雄→

松岡正剛の千夜千冊/641夜 『風立ちぬ』 堀辰雄→

ウィキペディア/ザ・ビートルズ(アルバム)(平成25年3月23日更新版)→


※当ページの最終修正年月日
2017.2.13

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