●『絶望の書』・・・辻 潤(つじ・じゅん 46歳)の作品。昭和5年、万里閣から発行された。

アナキスト、ダダイスト、エゴイスト、ニヒリストといったら、何か穏やかからぬ感じである。著者の辻 潤には、そういった言葉が“全〜部”当てはまりそうで、正直いってかなり怖い。それに、書名からして『絶望の書』だ。相当やばそうである。

と、だから、用心して読み始めたのだが、これがなかなか面白い。英語・フランス語・漢文・不明言語やらが入り乱れ、駄洒落あり、おちょくりあり、むろん哲学もあれば、宗教もある。ゴッタ煮のようで何だが難解だが、機関銃のように発せられる鋭い言葉が所々で突き刺さってきた。

著者は、大真面目なんだろうか? それとも・・・ 

それで、書名にある「絶望」であるが、果たして著者の「絶望」とは何だったか、と考えてみた。

自分にとって、生きているということは恥をさらすということにしか過ぎない。またぞろ、かくの如き文集を出す所以である。この書を読んで読者はしばらく自己の優越を感じ給え。著者にとってそれはいささかの慰めとなるであろう。自分はキャメレオンであり、マソヒストであり、なんでありかんである。なんてんかんてんところてんである。てんとして恥ずるところを知らざる猿でもある。

序文からの抜粋だが、これを読む限りでは著者は自分自身に絶望しているかに見える。また、著者の年譜を見ると、最愛の妻に逃げられたとか、しかもその彼女が虐殺されたとか、酒に溺れたとか、精神を病んだとか、監禁されたとか、そして最期はシラミにまみえての孤独死だったとか、彼の絶望を裏付けるものには事欠かない。

しかし、この本を読み進めるうちに、著者の絶望はが明らかに「ふり」であることに気がついた。彼は絶望どころか、反対に、強烈に、気持ちいいほどに自分を肯定している。

その阿呆の代表みたいな顔をして生きているのが、自分という人間なのだ。これは洒落でも皮肉でもないのだ。小利口な奴等なら、世間にはウジャウジャと腐る程、転がっているのだ-----偶には自分のような阿呆のひとりや二人位いたって人類の名誉にはこそすれ、少しも恥辱にはならないと思っている。僕は自分を阿呆だときめているわけでもなければ、卑下して自分を阿呆と称しているわけでもない-----寧ろ僕は自分の阿呆を誇りとさえしている位である。

と、こんな感じだ。

社会から認められたら、社会に縛られてしまう。

著者は、阿呆のふりをして、絶望しているふりをして、落伍者のふりをして、社会からかけがえのない自分を守ったのだ。戦前・戦中の暗黒時代のことでもある。

彼の「絶望」は仮面である。それは、明らかに彼の戦略だった。


『絶望の書』を読むには

『絶望の書』(万里閣書房 昭和5年)
『絶望の書』 (R出版 昭和47年)
『講談社文芸文庫 絶望の書』 (講談社 平成11年)
『 辻潤著作集<第1> 絶望の書』(オリオン出版社 昭和44年)

■『絶望の書』を読むことができる図書館
国立国会図書館→を所蔵)
東京都大田区立馬込図書館→を所蔵)
※ その他の全国の図書館にも、けっこうあるようだ。


辻 潤について

浅草生まれの少年は、尺八に熱中する
明治17(1884)年10月4日、浅草で生まれる。祖父は浅草蔵前の札差(旗本・御家人の代理として禄米を受け取る仕事。金貸しなどもした)で資産があった。4〜5人のお手伝いさんにかしずかれ、当時では珍しい幼稚園に通う。祖父の財は尽き、明治25年(8歳)、父親の仕事の関係で津(三重県)に転居。隣に尺八の名人が住んでいて興味を持つ。教会の日曜学校にも通う。明治27年(10歳)、東京に戻る。開成中学に入学。斉藤茂吉と同じくラスだった。翌年退学。初代荒木古童に入門し尺八に熱中する。この頃、清少納言、滝沢馬琴、幸田露伴、泉鏡花などを読んだ。

語学を身につけ、身を立てる
明治32年(15歳)、給仕をしながら国民英学会英文科に学ぶ。内村鑑三の著作や、聖書・洋書に親しむ。幸徳秋水の「平民新聞」や北村透谷の著作も読む。小学校の教師、英塾の教師、夜学の教師、家庭教師を勤めながら、翻訳に励む。

伊藤野枝との出会いと別れ
明治42年(25歳)から東京巣鴨に住み、翌年、ロンブローゾの『天才論』を訳了。明治44年(27歳)、上野高等女学校の英語教師になった。そこで、伊藤野枝に出会う。翌年から同棲、翌々年、長男のまことが生まれる。この頃、近所の福田英子の紹介で、アナキストの渡辺政太郎に出会った。大正4年(31歳)、野枝の出奔後、浅草に住み、「英語、尺八、ヴァイオリン教授」の看板を出す。この頃、武林夢想庵、谷崎潤一郎、佐藤春夫らの知遇を得る。

ダダイズムへの接近、そして渡欧
大正8年(35歳)武林のすすめで、比叡山の宿坊に入り、そこで翻訳に励む。白蛇姫に出会う。下山後は、大阪、東京上落合、川崎、東京北稲荷町、早稲田裏、本郷、麹町などを転々とする。大正10年(37歳)、マックス・シュティルナーの『自我経』(「唯一者とその所有」)を完訳、改造社から発行する。大正11年(38歳)、高橋新吉を彼を通じてダダイズムを知る。翌年、辻の編集で『ダダイスト新吉の詩』(中央美術)が発行された。大正14年(41歳)、喘息の発作に襲われるが治療費がなく、見かねた人たちで「辻潤後援会」が結成された。昭和3年(44歳)、読売新聞の文芸特派員として、息子のまことをつれて渡欧。

漂白の末、死去
昭和7年(48歳)、この頃から過度の飲酒が原因で精神に異常を来すようになり、その奇行が新聞のゴシップになった。警察に保護されたこともある。友人知人の家を転々としながら、雑誌などに寄稿・訳載。
昭和19(1944)年、東京上落合のアパートの一室で死去する。警察医は狭心症としたが、餓死ともいわれている。享年61歳。現在、東京駒込染井の西福寺に眠る( )。


辻 潤と馬込文学圏
〜 馬込文学圏に何度か出入り〜

大正6年(33歳)頃、佐藤惣之助の招きにより、馬込文学圏とはちょっと離れるが川崎の砂子に住んだ。それを皮切りに、大正13年(40歳)頃には、蒲田(東京都大田区)の松竹撮影所の裏などにも住んでいる。戸締まりをせず真夜中でも来客を拒まなかったので「カマタホテル」と呼ばれた。室伏高信など多くの来客がある。昭和2年、中原中也が辻を訪ねたのもこの「カマタホテル」と推測される。

昭和4年頃(45歳)、萩原朔太郎との行き来が盛んになる。辻も何度かは馬込文学圏に来たのではなかろうか。朔太郎は辻主宰の「ニヒル」を批評し、辻も朔太郎の個人誌「生理」に何度か寄稿・訳載している。二人で雑誌を出そうという話もあったが、実現しなかった。朔太郎は辻のことを「現代のおかしげなキリスト」と評した。

昭和9年(50歳)から馬込文学圏の玉生夫妻宅に居候。佐賀の旅と小田原住まいをへて、昭和10年(51歳)、霜田アパート(南馬込3丁目)に松尾としと落ち着く。尺八片手に門付けするようになるのもこの頃からである。添田知道尾崎士郎も辻の訪問を受けている。奇行が目立つようになり、大森警察署に保護されたこともあり、それを竹久不二彦がもらい受けにいったこともある。その後、しばらくは東館(南馬込2丁目)という下宿屋で暮らしたが、昭和14年(56歳)、息子のまこと宅(山王4丁目)に身を寄せた

辻には、『馬込雑筆』なる一文もある(「無風地帯」の終刊号 昭和12年 53歳)。


参考文献

●辻潤 「個」に生きる』
(高木 護 たいまつ社 昭和54年)

●『大田文学地図』
(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年)P.101

●『辻まことの芸術』
(宇佐見英治 編 みすず書房 昭和54年)
※「おやじについて」p.61

●『新潮日本文学アルバム 萩原朔太郎』
P.74

●『美は乱調にあり』『諧調は偽りなり』
(瀬戸内晴美 文芸春秋社 昭和41年)

●『辻 潤 著作集 別巻 年譜』
(オリオン出版 昭和45年)
※年譜、『辻 潤をめぐる杯』(添田知道)

●『最新大森区明細地図』
(東京日日新聞 昭和10年)


参考サイト

辻潤のひびき→
※詳細な年譜など

QPの辻潤研究→
※辻の写真など

アナーキー・イン・ニッポン→

文学者掃苔録図書館/辻 潤のお墓→


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※当ページの最終修正年月日
2006.9.17