『花物語』は全部で52編の短編からなり、どれにも「少女と少女」「少女とお姉さん」「少女と奥さん」といった女性同士の、心の交流を描かれている。それぞれのタイトルは全て花の名前で、その花が物語にも印象的に登場する。「鈴蘭」「月見草」「白萩」「野菊」「山茶花」「水仙」「名も無き花」「鬱金桜」「忘れな草」・・・と、花好きの人にはたまらないだろう。
昔、母が私に話してくれた「花物語」からのいくつかのエピソードや、拾い読みした限りの数編から想像して、『花物語』はかわいそうな少女たちの悲しいお話で埋めつくさているんだろうと思っていた。確かに、悲しみを背負った少女に、別の少女が心を寄せて涙する、といったものが多い。しかも、その悲しみは必ずしも「負のもの」ではなく、“悲しみ”は少女をより可憐さにし、より健気にし、より強く、優しくしているようでもあった。
しかし10編、20編と読み進めるうちに、『花物語』の印象がずいぶん変わってきた。たしかにどの物語にも哀感が漂っているが、案外、微笑ましい箇所なども多いのに気がついた。あるところなどでは、私は、思わず大笑いしてしまったくらいだ。
次のような場面である。運動会の日、あこがれの上級のお姉さんが、かけっこで1位を取った子を並べる役をやっている。豊子という少女はそのお姉さんの元に並びたくて、必死になって走るのだ。
紫の薄煙が銃口から昇ると共に(走れ)と音は鳴つた。ひとしく地を離れた選手の足並み!! 抜き手を切つて、みなぎる大河を泳ぐ勢ひ口々に友の親しき名を呼んでフレーを叫ぶ群衆のどよめき、その中を走り抜く豊子の瞳にうつらふものは、たヾ霞の奥に閃く星影のやうに、ひらめきなびく旗のもとに立つ美しい幻ばかりであつた、その幻を追うて走りゆく豊子をふいにひしと抱き止めた優しき腕があつた。この腕の与えられないならば、豊子は圓内を幾度走りまはるとも知るを得なんだらうに。
はつと息をこらして危く倒れやうとする豊子を抱きよせて、耳もと近く囁く声、
「おめでたう、もう大丈夫! 第一着。」(『花物語』の「忘れな草」より)
私が笑ってしまったのは、この女の子があまりにお姉さんに対して一生懸命なのと、こんな風に書ける作者の吉屋信子は本当に女の子が好きだったのだなと得心したからなのだ。
ともあれ、この『花物語』には、このように、「人を好きになることの原点」がそこかしこに花開いていて、美しい。
『花物語』について
大正5年(吉屋信子19歳)から9年間にわたり、「少女画報」「少女倶楽部」に連載されたもの。7話完結の予定だったが、読者からの強い要望によって、52話まで書き継がれた。以後、落陽堂、交蘭社、実業之日本社、東和社、ポプラ社、河出書房、新学社、ほるぷ出版(落陽堂版の復刻)、国書刊行会から単行本化し、人気を博する。
吉屋信子について
19歳で書いた『花物語』が大ヒット
明治29(1896)年1月12日、新潟市で生まれる。父親は、足尾鉱毒問題の真っ最中に、その被害地の一つ、栃木県下都賀郡で郡長を務めていたという人。その人徳も伝わっているが、家父長主義・男尊女卑の考えを持っていたことには変わりなく、吉屋は八人兄姉弟妹の紅一点として、常に父親からの圧迫・差別を感じつつ育ったようだ。そんな中、栃木高等女学校の入学式で聞いた新渡戸稲造の「一人の女であるよりも一人の人間であれ」といった演説に感銘を受ける。
学校の教師に作文をほめられた吉屋は、自信を得て、少女雑誌に投稿するようになった。明治43年(14)、雑誌「少女界」の懸賞小説で一等を取る。大正5年(19)、東京の兄を頼って上京。雑誌「少女画報」に『花物語』を連載し、話題になる。その頃、「青鞜」にも投稿していた。
徹底して女性を描く
大正9年(24)、大阪朝日新聞に連載された『海の極みまで』、父親の喪中の萩市の実家で書かれた『屋根裏の二処女』などで高い評価を得た。
大正12年(27)、生涯の友であり伴侶ともなった門馬千代に出会った。昭和3年(32)、門馬を伴って渡欧、一年近くパリに滞在した。この頃、『女の階級』を執筆。プロレタリア文学全盛期であったが、この作品で吉屋は「資本家」対「労働者」よりもむしろ「男性」対「女性」の階級構造を根本的な問題と捉えた。
昭和10年(39)、『女の友情』を執筆。女性同士の美しい連帯が描かれた。昭和12年(41)、『良人の貞操』を執筆。戦中はペン部隊に参加した。
問題作、『安宅家の人々』
昭和27年(56)、『安宅家(あたかけ)の人々』を発行。知的障害の男性に理想の男性像を見出すという作品。その構想に理解者の門馬すら危惧の念を持ったというが、吉屋は信念を貫いて書き通し、「吉屋の戦後の最高傑作」ともいわれる作品となる。その他、『徳川の夫人たち』『女人平家」など、歴史上の女性にスポットを当てた作品も書いた。
昭和48(1973)年7月11日、大腸ガンで死去。享年77歳。遺言により土地と蔵書は鎌倉市に寄贈された。墓所は、鎌倉の大仏の裏の清浄泉寺(
)。
吉屋信子と馬込文学圏
大正13年(28)、大森不入斗(いりやまず。現在の大森北4丁目)に家を持って、母親と住んだ。大正15年(30歳)まで約2年在住した。馬込文学圏の作家では、宇野千代と親しくした。
作家別馬込文学圏地図「吉屋信子」→
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馬込の女流作家たち
馬込では多くの女流作家が活躍した。右から2番目が吉屋信子。一番右が、佐多稲子。左から2番目が宇野千代。(大森駅前天祖神社脇のレリーフより) |
参考文献
●『吉屋信子』
(駒尺喜美 リブロポート 平成6年)
●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』
(大田区立郷土博物館編 平成8年)P.81
参考サイト
●美作女子大学 /美作女子大学短期大学部紀要/吉屋信子「花物語」の変容過程をさぐる -少女たちの共同体をめぐって-→
●文学者掃苔録図書館/吉屋信子→
●高い城・知の寄り合い所帯/女性学の間/第2部 日本/第2賞 明治から終戦まで/第1節 吉屋信子→
●日本映画データベース/吉屋信子→
●鎌倉市公式ホームページ「かまくらGreenNet」/吉屋信子記念館→
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※当ページの最終修正年月日
2008.4.6

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