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辻村もと子の『馬追原野』を読む(開拓というゲーム)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明治の20年代に北海道の開拓を志した人たちの物語である。

ほとんど何も持たずに本州から来た人たちは、 広大な大地と出会う。「自然は素晴しいなぁ」などと呑気なことを言っていられるレベルでは、到底無い。道をちょっと外せばたちまち迷い、それこそ行き倒れだ。毒草も生えていれば、熊も出る。

わずかな道具と自分たちの体だけが頼りだ。この原野で、彼らは小屋掛けすることから始めた。

家を建てるための板も木を切り倒して自分たちで作る。縄も自分たちで る。それに適した材料を知り、見つけ出し、それらを作る技術と体力を持つ者が尊敬され、リーダーになっていく。学歴などはなんのたしにもならない。

店もない、どころか人がいない。食べるものも自分たちで作る。草を刈り、木を切り倒し、根を掘り起こして、土地を作り、耕し、ようやく種が蒔ける。

空をおおい尽くすイナゴの大群が襲ってきて作物を一瞬にして食いつくすこともある。イナゴを殺して土に埋める「バッタ掘り」という仕事があるのを知った。北海道には夥しいイナゴを埋めた蝗塚いなごづか なるものが今も残るという。

こういった困難が次々に現れるのに、『馬追原野』を読んでいるとワクワクする。そこには、「冒険」があるからだ。課題(プロブレム)がある。わざわざ高峰や未知のジャングルや宇宙の果てを目指す必要はない。生きることが、もう冒険であり、大いなるゲームだからだ。


『馬追原野』 について

辻村もと子『馬追原野』
辻村もと子『馬追原野』

昭和17年「婦人画報」の懸賞小説で一等になり、同年、風土社から出版された辻村もと子(36歳)の小説。辻村の父・直四郎が北海道に渡って最初に開拓した馬追原野map→でのことが書かれている。昭和19年、第一回「一葉賞」を受賞。 2部3部と書きつなぐ予定だったが体調が許さなかった(辻村は4年後の昭和21年に40歳で死去)。昭和47年(辻村の死後26年)、馬追丘陵の高台に、『馬追原野』の文学碑が建ち、「マオイ文学台」(北海道夕張郡長沼町東 map→)と呼ばれる。

メインのストーリーとは別に、北海道開拓史上のトピックスがあり興味深い。●北海道の天皇の離宮計画 ●北海道開拓において囚人が果たした役割 ●開拓顧問ホラシ・ケプロンによるクラーク博士の招聘 ●利権目当ての土地所有による弊害とその克服 ●当局が放火した「御用火事」 ●炭坑に流れた農業労働力など

■ 作品評
●「北海道移民の貴き人間歴史を教示、今の時代にも適宜なる感動を贈り得る作品」(吉屋信子
●「作中のどの人物にも作者の優しさがかけられていて美しい」(佐多稲子
●「太い骨格を持ちぐんぐん描写」(朝谷耿三あさたに・こうぞう


辻村もと子について

辻村もと子 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『辻村もと子 〜人と文学〜』(いわみざわ文学叢書刊行会)

辻村もと子 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『辻村もと子 〜人と文学〜』(いわみざわ文学叢書刊行会)

●北海道の開拓者の家に生まれる
明治39年2月11日、北海道石狩平野の東、岩見沢 志文 しぶん map→で生まれる。2月11日は紀元節(敗戦後廃止されたが「建国記念日」として復活)に生まれたので「もと子(元子)」。父は、5年間米国で大規模農業を学び、岩見沢を開拓した辻村直四郎。「志文」という地名も彼がアイヌ語からつけた。地名のとおり「学をす」。父が残した開拓前の原始林約1.5ヘクタールが、3人の弟との遊び場となる。「早稲田文学」で活躍した批評家の中村星湖は従兄弟。共通の祖父は芸術・文学を愛好した。

志文尋常高等小学校を優秀な成績で卒業したあと、父母の郷里神奈川県小田原の祖母の家に寄宿し、「小田原高等女学校」(現「(神奈川県立)小田原高等学校」(神奈川県小田原市 城山しろやま 三丁目26-1 map→))に通う。本家の辻村伊助は著名な登山家で、妻のローザはスイス人、ローザから英語を教わる。この頃から島崎藤村やゲーテを読む。翌年、祖母の死を契機に北海道に帰り「遺愛いあい高等女学校」(函館市杉並町23-11 map→ site→)に転校。 厳格なキリスト教教育を行う同校において、自由への憧れを募らせた。1年下に石川啄木の娘(石川京子)がおり、文学を語りえる友となる。国語教師の添削を受けて少女雑誌に投稿するようになった。快活でユーモアに富み、周りに親切な心優しい少女だった。お洒落で袴のたけを短くして教師から注意されることもあったとか。ここも優秀な成績で卒業。

最初、啄木与謝野晶子に感化されて短歌を作るが、しばらくして小説を書くようになる。同郷の作家中村武羅夫からも影響を受けた。「日本女子大学」(東京都文京区目白台二丁目8-1 map→ site→)卒業の年(昭和3年。22歳)、最初の作品集『春の落葉』(青空文庫→)を上梓。舞台が農地なのが特徴だ。岩見沢町立女子職業学校で1年ほど教鞭をとった後、結婚して東京都杉並区阿佐ヶ谷map→に住んだ。昭和3年(21歳)、「火の鳥」の同人になり、以後主な発表の場となる。編集も手伝う。昭和4年(23歳)頃から腎臓病を病み、体調不調に悩む。

離婚、そして執筆に専念
昭和15年(34歳)、価値観の相違から11年間の結婚生活に終止符を打ち、当地の「大野荘」(現在、マンション「MIMOZA」「メイヒルズ若山」が建っているあたりにあった。東京都大田区中央二丁目1 map→)に一人住み、執筆に専念するようになる。「火の鳥」の先輩・村岡花子(47歳)がいろいろ世話をした。この頃『馬追原野』を起筆する。モデルの父親に読ませることを願ってペンをとったが、起筆の翌年(昭和16年)、父親が没する。

昭和20年(39歳)、農作物の品種改良に打ち込む若い夫妻を描いた『月影』が芥川賞候補になるが、戦局悪化と、戦後は母体の文藝春秋社の菊池 寛(初代社長)と佐佐木茂索(二代目社長)の公職追放などによって同賞は中断(中断期間は昭和20~24年)、受賞にいたらなかった。

『挙手』の映画化が決定(戦後上映。 『別れも愉し』 と改題)。北海道に入植した頃の母を書簡形式で描いた『早春箋そうしゅんせん(青空文庫→)も代表作に数えられている。「日本文学者」の編集責任者も務めた。

昭和20年、東京大空襲後、過労により体調悪化、北海道岩見沢に帰郷して、岩見沢市の病院に入院。翌昭和21年5月24日(40歳)、長年患った腎臓病により死去する。(

辻村もと子
●「さまざまな苦難の中にも決して他人を恨まず、暗黒の中にも光明を見出そうと努力する率直な性格であった」(村岡花子

加藤愛夫『辻村もと子 〜人と文学〜 (いわみざわ文学叢書) 』
加藤愛夫『辻村もと子 〜人と文学〜 (いわみざわ文学叢書) 』

辻村もと子と馬込文学圏

昭和16年4月の父の死を機に浦和に引っ越したので当地(東京都大田区中央二丁目)にいたのは9ヶ月ほどか。同郷(北海道出身)の朝谷耿三あさたに・こうぞう (東京都大田区山王四丁目にいた。倉田百三の姪の夫)の紹介で当地の倉田百三に会ったこともある。辻村倉田も病身だったため、病気の話で盛り上がった。倉田辻村に「長生きも大切だが、文学者は良い作品を残すことこそが永生き」と話す。倉田辻村より3年早く昭和18年に死去。

作家別馬込文学圏地図 「辻村もと子」→


参考文献

●『辻村もと子 〜人と文学〜』(加藤愛夫 いわみざわ文学叢書刊行会 昭和54年発行)P.12-17、P.21、P.171 ●『馬追原野(復刻版)』(辻村もと子 岩見沢市志文 平成5年発行)P.190、P.262 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(編・発行:東京都大田区立郷土博物館 平成8年発行)P.51

※当ページの最終修正年月日
2021.3.27

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