●『死の淵より』・・・高見 順(たかみ・じゅん)の詩集。昭和38年、講談社から発行された。
死が迫ってきた時、人はどんなことを思うだろうか------。 実際、死の淵に立った著者が、勇気をもってそれを私たちに示してくれた。食道ガンと戦いながら、2〜3行書いては2〜3日休み、そしてまた2〜3行、と命を灯すようにして書いたのがこの詩集である。
“自分の死”は、頭で考えた死や、自分以外の他の人の死とは別物のようだ。叫び声をあげて逃げ出したくなるような、でも逃れることができない強烈な痛みと、悲しみと、恐怖。きれい事ではありえない。
(『死の淵より』から「泣きわめけ」)
夜の底から死者の爪がのびてきたり、体から出るピューピューという音がやけに悲しかったり、死よりもいやな空虚が感じられたり、自分で命を絶つ方法を考えたり、でも死ぬことすらできないと考えたり、すでに死臭が漂ってきたり、肉体とは無関係の心を恨んだり・・・。これらは、絶望の底からのうめきだろうか。
この逃げ場のなさ。でも生きていかなければならないのだ------。著者は必死になって何かを探す。
当たり前のことだが、私たちだってみんな死ぬ。生まれ落ちた時から死に向かって歩き出すことには違いない。赤ちゃんだって、子どもだって、ピチピチのアイドルだって、スポーツ選手だって例外ではないのだ。
死の淵における著者の悪戦苦闘が、不思議と心に勇気と静けさを与えてくれるのは、今、私たちも、同じく死の淵に立っていて、それにうすらうすら気づいているからなのかもしれない。彼が見い出した心の支えは、私たちの心の支えでもあるのだろう。
『死の淵より』を読むには
『死の淵より』
(講談社 昭和39年)
『名著シリーズ 死の淵より』(講談社 昭和41年)
『講談社文庫 死の淵より』(講談社 昭和46年)
『講談社文芸文庫 死の淵より』(講談社 平成5年)
『死の淵より』(日本図書センター 平成16年)
や、その他全集で読むことができる。多くの図書館が所蔵していると思う。
高見 順の生涯
私生児として育つ
明治40(1907)年1月30日、福井県三国町で生まれる。本名は高間芳雄。父親は永井荷風の父親の弟(高見と永井荷風は従兄弟同士)で、福井県知事を務めていた。訳あって私生児として届けられた(昭和5年(23歳)、父親から認知され庶子となる)。翌年、父親の近くに住むことを望んだ祖母・母親に連れられて東京に移転。麻布のみすぼらしい長屋に住んだ。母親の針仕事が生計を支える。
白樺派、ダダ、そして左翼思想へ
中学時代から白樺派の作家に親しみ、後に大杉
栄の影響を受け、高校時代はダダイストとも交わった。築地小劇場に熱中した。昭和2年(20歳)、東京帝国大学文学部英文科に入学。翌年、壺井繁治らと左翼芸術同盟を結成し、「左翼芸術」を創刊した。そこで初めて高見
順と名乗る。同年、左翼芸術同盟はナップに合流した。
投獄され転向。本格的な作家生活に入る
卒業後、研究社の辞書編纂部、コロムビア・レコードで働く。昭和6年(24歳)、日本プロレタリア作家同盟城南地区のキャップとなり、労働運動を通して非合法革命運動に接近した。
昭和7年(25歳)検挙され拷問を受けた。翌年3月転向を誓って釈放される。その間に妻は去った。
一時期デカダンスな生活を送るが、新しい恋愛がきっかけに書く意欲を取り戻し、本格的な作家生活に入っていく。昭和10年(28歳)、『故旧忘れ得べき』を執筆、第一回芥川賞の候補になる。
吐き出すような独自の文体で、3つのコンプレックス(父親からの不認知・思想的挫折・妻の出奔)に取り組んだ。「日本における最初の現代文学(川端康成)」「高見 順の時代といふ時代があつた(中島健蔵) 」と評されるまでになる。昭和11年(29歳)、武田麟太郎主宰の「人民文庫」に参加した。
昭和16年(34歳)、尾崎士郎との間で「文学非力説」論争があった。高見の「文学は文化の土台を守るには力が足りないし、国民を決起させるためには非力である」という発言に対し、尾崎がその弱腰を批判したようである。後年の高見の日記に「(尾崎士郎から)売国奴呼ばわり」されたとある。
体調不良と戦いながら書く
戦中は、陸軍報道班員としてビルマとタイへ派遣された。北鎌倉在住時には、暮らしの足しにと川端康成らと貸本屋「鎌倉文庫」を開店、順番に店番をする。後に出版社にまで発展した鎌倉文庫の常務取締役を務めるが、その激務もあって、昭和22年(40歳)頃から体調が優れなくなった。
昭和33年(51歳)、『わが胸の底のここには』を出版。昭和37年(55歳)には、芥川賞選考委員になった。また伊藤
整や小田切進らと日本近代文学館の設立準備を始める。翌38年(56歳)、『いやな感じ』を出版。内に向けられていた今までの眼を外に向ける試みだった。昭和という時代を書き切ろうとした。
昭和40年(58歳)、4回、食道ガン手術する。日本近代文学館の起工式までは、とがんばる。8月16日、起工式にメッセージを残し、そして、その翌日、この世を去った。
北鎌倉の東慶寺と福井県三国の円蔵寺に埋葬される(
)。
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| 鎌倉東慶寺の高見の墓にて。春の紅葉が若葉に涼しげな影を落としていた。
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高見 順と馬込文学圏
昭和5年(24歳)大学卒業直前に劇団制作座(高見がリーダーだった)の石田愛子と結婚、麻布の母親の元を去って馬込文学圏(不入斗。今の大森北辺り)に住んだ。しかし、 3年後の昭和7年(25歳)治安維持法違反で大森警察に拘留され拷問を受ける。翌昭和8年3月、転向宣言をして出獄した。しばらくして、愛子は去った。
妻に逃げられた痛手を紛らわすがごとくに銀座裏をさまよい、昭和10年(28歳)、銀座裏に務める水谷秋子と出会う。新しい恋愛に制作意欲を取り戻して書かれたのが『故旧忘れ得べき』である。秋子とは後に結婚し、やはり住んだのが馬込文学圏(大森北4丁目)だった。高見の母親も同居した。
昭和13年(31歳)、浅草に仕事部屋を構え大森から通い、『如何なる星の下に』が生まれた。
昭和18年(36歳)4月、鎌倉の山ノ内に転居。13年間の馬込文学圏住まいだった。
小説の『感傷』『外資会社』や、エッセイの『妙な名前』などに、大森駅や大森銀座が出てくる。
馬込文学圏の [高見 順] 関係地図→
参考文献
●『高見 順 ●人と作品』
(石光 葆 清水書院 昭和46年2刷)
●『大田文学地図』
(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年)P.63、P.101、P.157-166
●『馬込文士村ガイドブック 改訂版』
(東京都大田区郷土博物館編 平成8年)P.46-47
●『評伝 尾崎士郎』
(都築久義 ブラザー出版 昭和46年) P.217-221、P.286-288
※「文学非力説」論争について書くにあたって参照した
●『プロレタリア文学運動』
(湯地朝雄 晩声社 平成3年) P.25-26
●『新潮現代文学 高見順』
(新潮社 昭和56年) P.354-366
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※当ページの最終修正年月日
2007.8.24
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