古本屋には、いろいろな客がやって来る。こんな客もいたそうだ。

その青年は、日に一度は必ず、多い日には二度も店に来る。でも本を買うことはまれで、買ったとして粘ったあげくの均一本。それも必ず値引き交渉をしたというのだ。ある日、古本屋の主人もカチンと来て青年を叱る。「うちも商売でやっているんだぞ!」

数ヶ月して、その青年は『ブールデルの彫刻作品集』をカウンターに持ってきた。その本は当時の1,500円で、たいへん高価なものだ。均一本しか買わない青年だったので、古本屋の主人は驚く。

そして何年かが過ぎたある日のこと、その古本屋に電話がかかってきたという。

「もしもし、関口さんですか」
夜の九時頃だった。
「はい、関口ですが、どなたですか」
「野呂邦暢です」
「野呂邦暢さんと言うと、今度『草のつるぎ』で芥川賞を受賞された方ですね、何かご用でしょうか」

(『昔日の客』より)

「関口さん」はこの古本屋の主人で、電話はなんと芥川賞作家の野呂邦暢からだった。実は、かつて関口さん(古本屋の主人)がしかりとばした青年は、後の芥川賞作家だったのである。

野呂は電話口で、かつての一コマを懐かしげに語る。かの高価な本をカウンターに持っていった時、関口さんは目を丸くしてその理由を尋ねたという。野呂は、東京を離れること、そして今を逃したらこの本に再び出会えないかもしれないので思い切って買うのだと関口さんに告げた。関口さんは、「それでは」とその本の価格の1/3をスパッと値引いたというのである。そして、店を後にする野呂に「郷里でもがんばっておやりなさい」と励ましの言葉を送ったという。・・・野呂の話で、関口さんもぼんやりと当時のことを思い出すのだった。

と、この『昔日の客』という本では、古本屋を訪れた個性的な、そして懐かしいお客さんのことが回想されている。いうまでもなく、この本の著者は、その古本屋の主人の関口さん。臼田坂の下にあった“山王書房”の関口良雄。名物古本屋として知られる人物である。


『昔日の客』について

関口良雄(下記「関口良雄について」を参照)が、自身の還暦の節目として出版を思い立ったエッセイ集。完成間際、関口は死の床にあったが、そこ頃の日記に「自分の本ができるなんて本当に夢のようだ。涙が出るほどうれしい」とある。関口没後約1年、昭和53年10月30日、三茶書房より発行された。あとがきをご子息の関口直人氏が書いている。

関口良雄について

給料の大半が古書に化ける
大正7(1918)年、長野県飯田市で生まれる。小学校卒業後、兄を頼って上京。紙店や新聞屋で働きながら中学に通うが、体を壊し退学する。戦後、文昌閣印刷に入社するが、文学熱が高じ、給料の大半が古書に化けたという。

商売抜きで文学書目を発行
昭和28年
(35歳)4月25日、馬込文学圏(中央1丁目。池上通りを臼田坂の方にちょっと入った所)に日本近代文学専門の古書店「山王書房」を開く。昭和38年(45歳)、「上林 暁文学書目」、翌39年には「尾崎一雄文学書目」を発行。発行後、両名の全著作(初版 91点)を日本近代文学館へ寄贈した。

作家との交流
古書販売業のかたわら俳句・詩・書に親しみ、昭和45年(52歳)には、尾崎一雄、上林 暁、木山捷平、山高のぼるらと五人句集『群島』を作る。俳名は銀杏子。関口をモデルにした作品も多く、尾崎一雄の『口のすべり』、木山捷平の『酔いざめ日記』(昭和50年 講談社)、沢木耕太郎の『バーボンストリート』(昭和59年 新潮社)青木正美の『古書店奇人伝』 などに登場する。

山王書房近くの大森赤十字病院で亡くなる
1977年
(昭和52年 59歳)4月2日、大森赤十字病院に入院。同年8月22日の朝に死去した。結腸癌だった。墓所は、浦和の真福寺( )。

山王書房から歩いて20分ほどの距離にある「どどめきばし」(東京都大田区南馬込6丁目)からの夕景。関口のお気に入りの散歩コースだった。


山王書房を訪れた人たち

名物店主に惹かれてか、山王書房をいろいろな人が訪れている。

●平岡 梓
三島由紀夫の父親。「君んとこは小説本ばかりだなー、何か川柳の本はないか」(『昔日の客』P.118) 。

三島由紀夫
夫妻で来たことも、一人で来ることもあった。蒲田のボディビルジムへの行き帰りに何度か寄ったようだ。店の本棚に自分の本を見つけて「署名しましょうか?」おどけて見せたとか。「けっして悪い感じの人ではなかった」(『昔日の客』P.119)。

尾崎士郎尾崎一雄木山捷平
彼らとは関口さんは友人づき合いしていたので、彼もちょくちょくと“山王書房”へ顔を出していたんではないだろうか。ちなみに尾崎士郎には“山王書房”の額を書いてもらっている

沢木耕太郎
沢木は実家が“山王書房”の近くにあったようで、里帰りのついでに寄っていたようだ。沢木の『バーボンストリート』(「ぼくも散歩と古本がすき」)の中に、その時のことが書かれている。


参考文献

●『関口良雄さんを憶う』
(編集人:尾崎一雄・岡本功司 昭和53年)

●『古本屋奇人伝』
(青木正美 東京堂出版 平成5年) P.138-158

●『バーボンストリート』
(沢木耕太郎 新潮社 平成元年)P.221-238


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※当ページの最終修正年月日
2008.4.25