●『水』・・・佐多稲子(さた・いねこ)58歳の時の作品。昭和37年「群像」に発表された。文芸評論家の奥野健男はこの作品を、「一行一行に無限の人間のかなしみ、生活の重さがこめられて、(二十枚足らずの短編であるが)何百枚かの長編を読んだと同じ感銘を受ける」と激賞した。
少女が、上野駅のホームで泣いている。
グリーンのセーターに灰色のスカートをはいて、その背をこごめ、幾代は自分の膝の上で泣いていた。膝にのせたズックの鞄を両手に抱え込んでその上で泣いていた。
すぐ頭の上の列車の窓から、けげんな顔で人ののぞくのも知っていたが、どうしても涙はとまらず、そこよりほかの場所に行きようもなかった。(『水』より)
と、幾代という少女は、ひたすら泣いている。なぜに、こんなにも泣いているのだろう。
幾代の左足は、少し短い。だから、歩くときにぴょこんぴょこんと左肩が下がってしまうのだ。そのため、子どもの頃、男の子たちにからかわれた。そんな幾代を必死にかばうのは母親だった。母親は大声でわめいて石を投げつけて男の子たち追い払い、そして、幾代には、あんたの足が悪いのは自分のせいなのだと泣いて謝るのだった。
そんな母親を、幾代は反対に可哀想に思った。母親に少しでも楽しい思いをさせたい。温泉にでも行かせてやりたい。そんな思いを胸に、幾代は東京に出てきたのである。
旅館での住み込みである。足が悪いので人と少し違った目で見られることもあった。でも、そんなことで負けはしない。毎月少しでも母親に送金できる、それが幾代の楽しみであり、心の支えだった。
ところが、ある日、旅館に一通の電報が届く。幾代の母の死を伝えるものだった。
そして、今、幾代は、母のもういない郷里に向かうべく上野駅に来ているのだった。ふと母親の横顔が目に浮かび、幾代はもう我慢できず、そこにしゃがみこんで、こんこんと泣く。
さて、この作品には「水」という題名がついているが、それには理由があるのだ。物語の最後の十数行で、泣いている幾代が、ふと、水に関わるちょっとしたことをするのだ。おそらく無意識なのだろう。その何気ない仕草に、人間の“弱さ”とか“哀しさ”とか“美しさ”とか“健気さ”とかが、見事に結晶しているように思った。
佐多稲子について
11歳の時から働く
明治37(1904)年6月1日、長崎県で生まれる。父親は18歳、母親は14歳で、正式には結婚していなかったため、とりあえずは母方の祖母の弟の長女として届けられる。本名は田島イネ。明治43年(7歳)、母親が亡くなり、家運が傾く。大正3年(11歳)、一家を上げて上京。向島の小学校に入学するがしばらくして経済的な理由から退学を余儀なくされ、キャラメル工場に働きに出る。その後、そば屋、料亭、造船所、メリヤス工場などを転々とする。一家の貧困を救うため芸者になろうとしたこともあった。
「驢馬」のメンバーとの出会い
大正9年(16歳)、上野の料亭「清凌亭」で女中をしているとき、芥川龍之介、菊池
寛、佐々木茂索らと会った。翌年、丸善書店の洋品部の店員になる。同僚の増田かおるの影響で、イプセン、トルストイ、倉田百三などを読むようになった。この頃から生田春月の『詩と人生』に詩を投稿している。大正13年(20歳)、ある資産家と結婚。しかし、夫の病的な嫉妬と暴力に苦しみ、翌年長女を出産するが、夫とは別れた。大正15年・昭和元年(22歳)、勤め先のカフェー「紅緑」で、中野重治、堀
辰雄、窪川鶴次郎らの「驢馬」の同人に会い、同年、鶴次郎と田端に所帯を持った。鶴次郎の影響でプロレタリア文学に接近する。昭和5年(26歳)、最初の小説『キャラメル工場(こうば)から』を戦旗社から出し、高く評価された。昭和10年(35歳)、「働く女性」の編集に携わっていたが、そのことを理由に起訴され、懲役2年執行猶予3年の判決がおりる。
新しい少女像を描きベストセラー作家へ
昭和15年(36歳)、『素足の娘』を新潮社から発行。旧来のモラルにとらわれない新しい少女像を描き、1ヶ月で16刷し7万部売れた。この頃、夫鶴次郎と田村俊子との関係が発覚。夫への不信感から反戦への情熱も失う。昭和16年(37歳)、戦地慰問に参加。
自らの戦前・戦中を厳しく見つめる
終戦後、戦地慰問していたことを宮本百合子ら文学仲間から批判され、新日本文学会の発起人からも外されてしまった。佐多は自身を見つめ、「プロレタリア文学に携わっていた自分がなぜに戦地慰問をするまでになったか」、そして「その戦争責任を認め、そしてまた、今、なぜ再び自分は共産党に関わろうとしているか」を主なテーマにする。『私の東京地図』(昭和24年
45歳)、『灰色の午後』(昭和35年 56歳)などが生まれた。「民衆からの孤立が左翼知識人の敗北につながった」という反省に立ち、民衆の実感を取り込んでいく革新運動のあり方を模索する。その間、婦人民主クラブの活動が原因で共産党から除名処分を受けた(昭和26年)。昭和30年(51歳)、共産党の六全協新方針が出て党への無条件復帰が認められたが、昭和39年(60歳)、党の方針を批判したため再び除名される。昭和45年(66歳)から昭和60年(
81歳)までは婦人民主クラブ委員長を務めた。共産党や中核派の介入を許さなかったという。
平成10年10月12日、94歳で死去。現在、東京八王子市の富士見台霊園で眠っている(
)。
佐多稲子の馬込文学圏時代
昭和7年(28歳)5月から7ヶ月間ばかり、大森の新井宿に住んだ。父親が脳を病み継母の郷里に引き上げた後の住まいを利用した。その頃の佐多は、日本プロレタリア文化連盟(コップ)への弾圧で夫の窪川鶴次郎が検挙され、一人、日本プロレタリア文化連盟の婦人協議会の機関誌「働く婦人」の編集や、地下に潜った小林多喜二や宮本顕治らとの連絡に奔走したという。日本共産党に入党したのもこの頃だった。稲子の『歯車』(昭和33年)や窪川鶴次郎の『新浅草物語』(昭和24年)には、当時のことが描かれている。
参考文献
●『佐多稲子〜体験と時間』
(小林裕子 翰林書房 平成9年)
●『新潮日本文学23 佐多稲子集』
(昭和46年)
●『大田文学地図』
(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年) P.149-153
●『馬込文士村ガイドブック』
(大田区郷土博物館 平成8年) P.39
参考サイト
●文学者掃苔録図書館→
文学者のお墓を一つ一つ丁寧に訪ねて訪ねておられます。佐多稲子も訪ねておられます(佐多稲子のお墓→)。
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※当ページの最終修正年月日
2006.7.7
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