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| 佐多稲子『女の宿』。「水」を収録 |
昭和37年、「群像」(講談社の純文学系月間文芸誌)に発表された
■ 作品評:
・「全篇に作者の鋭い
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| 佐多稲子 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『佐多稲子文学アルバム』(
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若い父母
明治37年6月1日、三池炭坑病院院長の息子で県立佐賀中学5年の田島正文を父とし、佐賀郵便局長の娘で県立佐賀高等女学校1年の高柳ユキを母とし、父方の祖母の実家(祖母の弟・田中梅太郎方。長崎県
早大生で文学青年だった叔父の影響で、図書館通いを覚え、西洋の童話だけでなく「中央公論」の小説なども読みふける早熟な文学少女だった。
11歳から働き、職場を転々とする
大正4年(11歳)、父は再起を図るべく家族を連れて上京。 向島の牛島小学校(現「小梅小学校」(東京都墨田区向島二丁目4-10 Map→)※同学年に堀 辰雄もいたはず)に入学するが、経済的理由から退学を余儀なくされ、神田川の
作家たちとの出会い
大正9年(16歳)単身再上京し、以前の奉公先の上野の料亭 「清凌亭」で女中をしているとき、芥川龍之介や菊池 寛らと出会う。丸善書店の洋品部の店員をしているとき、同僚の影響で、イプセン、トルストイ、倉田百三などを読み、生田春月の「詩と人生」に詩を投稿するようになった。
大正13年(20歳)、資産家の息子と結婚するが、夫と彼の家からの冷たい仕打ちに苦しみ、3度自殺を図る。父のいる相生町で長女を出産後、離婚。
大正15年(22歳)、女給として働いていた本郷動坂のカフェー「紅緑」 (マンション「パレス本駒込」(東京都文京区本駒込四丁目35-19 Map→)あたりにあった)で、中野重治、堀 辰雄、
新しい少女像を描き、人気作家に
当局からの激しい弾圧の中で、寄って立つ組織も壊滅し(メンバーのほとんどが入獄するか転向した)、佐多と窪川も表向きは転向。そんな中でいかに良心を貫くかで煩悶、当時の内面を『くれない』に書いた。日本プロレタリア文化連盟の婦人協議会発行の「働く女性」の編集に携わり、起訴されており、公判中だった(翌年(昭和12年)懲役2年執行猶予3年の判決がおりた)。
昭和15年(36歳)、相生時代のことを素材にした『素足の娘』で旧来のモラルにとらわれない無邪気でおおらかな少女を描きベストセラーとなり、人気作家に数えられるようになった。夫婦仲の悪化とともに戦時体制への抵抗の意思も薄れる(昭和20年離婚)。日本統治下の朝鮮を旅行し、出版社や軍からの依頼、または徴用で、満州、上海、南京、シンガポール、スマトラなどを訪ね、慰問した。
戦中の自分を厳しく見つめる
敗戦後、戦地慰問したことを宮本百合子ら文学仲間からも批判され、「新日本文学会」の発起人からも外された。以後、「なぜ戦地慰問をするまでになってしまったか」、 そして「自分の戦争責任を認めつつも、今、なぜ再び自分は日本共産党に関わろうとするのか」を主なテーマに、 『私の東京地図』 (昭和24年 45歳)、『灰色の午後』などを書く。民衆の実感に立脚した革新運動を模索。その間、「婦人民主クラブ」の活動が原因で日本共産党から除名されたが、 「六全協」(昭和30年発表の日本共産党の「第6回全国協議会で決議した方針」。武装革命の放棄)後、党への無条件復帰が認められた。ところが、党の方針を批判したために再び除名(昭和39年。60歳)。 昭和45年(66歳)から昭和60年(81歳)まで「婦人民主クラブ」の委員長を務めた。
平成10年10月12日、満94歳で死去。 東京八王子市の富士見台霊園に眠る( )。
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| 佐多稲子『私の東京地図 (講談社文芸文庫)』。著者のディープな過去が、東京の街々を背景に蘇る | 『佐多稲子集 (新潮日本文学23) 』。『キャラメル工場から』『素足の娘』『水』『くれない』『灰色の午後』など |
●「解説」(奥野健男)、「年譜」(佐多稲子研究会)※『佐多稲子集(新潮日本文学23)』(昭和46年発行)P.387-404 ●『
※当ページの最終修正年月日
2025.4.21