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佐多稲子の「水」を読む(無意識のしぐさ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少女が、上野駅のホームで泣いている。

・・・グリーンのセーターに灰色のスカートをはいて、その背をこごめ、幾代は自分の膝の上で泣いていた。 膝にのせたズックの鞄を両手に抱え込んでその上で泣いていた。
 すぐ頭の上の列車の窓から、けげんな顔で人ののぞくのも知っていたが、どうしても涙はとまらず、そこよりほかの場所に行きようもなかった。・・・ ( 『水』 より)

と、幾代は、ひたすら泣いている。なぜ、こんなにも泣くのだろう?

幾代の左足は、少し短い。だから、歩くときにぴょこんぴょこんと左肩が下がってしまう。そのため、子どもの頃、男の子たちにからかわれた。そんな幾代を母は必死にかばった。母は石を投げつけて男の子たちを追い払い、幾代には、あんたの足が悪いのは自分のせいなのだと泣いて詫びるのだった。

そんな母を、幾代は反対に可哀想に思う。母に少しでも楽しい思いをさせたい。温泉にでも行かせてやりたい。そんな思いを胸に、幾代は東京で働いていた。

旅館に住み込んで働いた。足が悪いので変わった目で見られることもあった。でも、そんなことでは負けはしない。毎月少しでも母親に送金できるのが幾代の楽しみであり、心の支えだった。

ところが、そんなある日、旅館に一通の電報が届く。母の死を伝えるものだった。

そして、今、幾代は、郷里に向かうべく上野駅に来ているのだ。向かうべく郷里には、母はもういない。ふと母の横顔が目に浮かび、幾代はもう我慢できず、そこにしゃがみこんで、こんこんと泣くのだった。

この作品には、なぜか「水」という題がついている。

物語の最後の十数行で、その理由が分かる。幾代の何気ない仕草に、人間の “哀しさ” と “美しさ”とが、見事に結晶する。


『水』について

佐多稲子『女の宿』。「水」を収録
佐多稲子『女の宿』。「水」を収録

昭和37年、「群像」(講談社の純文学系月間文芸誌)に発表された 佐多稲子 さた・いねこ (58歳)の短編小説。

■ 作品評:
・「全篇に作者の鋭い気魄きはくと熱く切ない感情がはりつめていて、一字一句の無駄もない」(奥野健男)


佐多稲子について

佐多稲子 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『佐多稲子文学アルバム』( 菁柿堂(せいしどう))
佐多稲子 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『佐多稲子文学アルバム』( 菁柿堂せいしどう

若い父母
明治37年6月1日、三池炭坑病院院長の息子で県立佐賀中学5年の田島正文を父とし、佐賀郵便局長の娘で県立佐賀高等女学校1年の高柳ユキを母とし、父方の祖母の実家(祖母の弟・田中梅太郎方。長崎県八百屋町やおやまち Map→)で生まれ、梅太郎の長女(女中が産んだ私生児)として届けられた。今でいえば父は高校2年で、母は中学1年であり、世間体を気にしての処置だった。父母は周囲の反対を押し切って子育てを開始。6歳で父母の養女として入籍し、田島イネとなる。父母子は互いに「さん付」で呼び合うハイカラな家庭だった。イネが小学校1年の時、母ユキが肺結核で死去。父の放蕩ほうとうが始まって、一家の経済が急激に傾いた。

早大生で文学青年だった叔父の影響で、図書館通いを覚え、西洋の童話だけでなく「中央公論」の小説なども読みふける早熟な文学少女だった。

11歳から働き、職場を転々とする
大正4年(11歳)、父は再起を図るべく家族を連れて上京。 向島の牛島小学校(現「小梅小学校」(東京都墨田区向島二丁目4-10 Map→)※同学年に堀 辰雄もいたはず)に入学するが、経済的理由から退学を余儀なくされ、神田川の和泉橋いずみばしMap→近くにあったキャラメル工場に働きに出る。その後、そば屋、料亭、メリヤス工場などを転々とした。兵庫県 相生町あいおいちょうMap→の造船所に単身で働きに出ていた父に芸者になる決意を手紙で伝えたところ、父はイネを相生町に呼び寄せる。

作家たちとの出会い
大正9年(16歳)単身再上京し、以前の奉公先の上野の料亭 「清凌亭」で女中をしているとき、芥川龍之介菊池 寛らと出会う。丸善書店の洋品部の店員をしているとき、同僚の影響で、イプセン、トルストイ倉田百三などを読み、生田春月の「詩と人生」に詩を投稿するようになった。

大正13年(20歳)、資産家の息子と結婚するが、夫と彼の家からの冷たい仕打ちに苦しみ、3度自殺を図る。父のいる相生町で長女を出産後、離婚。

大正15年(22歳)、女給として働いていた本郷動坂のカフェー「紅緑」 (マンション「パレス本駒込」(東京都文京区本駒込四丁目35-19 Map→)あたりにあった)で、中野重治堀 辰雄窪川鶴次郎くぼかわ・つるじろうら「驢馬」の同人と出会い、同年、窪川と田端に所帯を持った。中野に勧められて初めての小説 『キャラメル工場(こうば)から』 を書く(昭和3年23歳。自身の体験が元になっている)。日本プロレタリア作家同盟に所属。昭和7年、非合法だった日本共産党に入党、小林多喜二や宮本顕治らとも連絡を取った。佐多の『歯車』や、窪川の『新浅草物語』が事実に即したものならば、この頃、家族(窪川はこの年(昭和7年)の3月に検挙された)は、当地(東京都大田区中央一丁目11Map→あたり)に7ヶ月間ほど住んだことになる。父が脳を病み、郷里の佐賀に去った後の家を使ったもので、経済的な理由のほか、身を隠す目的もあったか。昭和8年、多喜二が特高警察に虐殺されたおり、遺体が戻された多喜二の母の家で、遺体と対面、一文を草する。

新しい少女像を描き、人気作家に
当局からの激しい弾圧の中で、寄って立つ組織も壊滅し(メンバーのほとんどが入獄するか転向した)佐多と窪川も表向きは転向。そんな中でいかに良心を貫くかで煩悶、当時の内面を『くれない』に書いた。日本プロレタリア文化連盟の婦人協議会発行の「働く女性」の編集に携わり、起訴されており、公判中だった(翌年(昭和12年)懲役2年執行猶予3年の判決がおりた)。

昭和15年(36歳)、相生時代のことを素材にした『素足の娘』で旧来のモラルにとらわれない無邪気でおおらかな少女を描きベストセラーとなり、人気作家に数えられるようになった。夫婦仲の悪化とともに戦時体制への抵抗の意思も薄れる(昭和20年離婚)。日本統治下の朝鮮を旅行し、出版社や軍からの依頼、または徴用で、満州、上海、南京、シンガポール、スマトラなどを訪ね、慰問した。

戦中の自分を厳しく見つめる
敗戦後、戦地慰問したことを宮本百合子ら文学仲間からも批判され、「新日本文学会」の発起人からも外された。以後、「なぜ戦地慰問をするまでになってしまったか」、 そして「自分の戦争責任を認めつつも、今、なぜ再び自分は日本共産党に関わろうとするのか」を主なテーマに、 『私の東京地図』 (昭和24年 45歳)、『灰色の午後』などを書く。民衆の実感に立脚した革新運動を模索。その間、「婦人民主クラブ」の活動が原因で日本共産党から除名されたが、 「六全協」(昭和30年発表の日本共産党の「第6回全国協議会で決議した方針」。武装革命の放棄)後、党への無条件復帰が認められた。ところが、党の方針を批判したために再び除名(昭和39年。60歳)。 昭和45年(66歳)から昭和60年(81歳)まで「婦人民主クラブ」の委員長を務めた。

平成10年10月12日、満94歳で死去。 東京八王子市の富士見台霊園に眠る( )。

佐多稲子『私の東京地図 (講談社文芸文庫) 』。著者のディープな過去が、東京の街々を背景に蘇る 『佐多稲子集 (新潮日本文学23) 』。『キャラメル工場から』『素足の娘』『水』『くれない』『灰色の午後』など
佐多稲子『私の東京地図 (講談社文芸文庫)』。著者のディープな過去が、東京の街々を背景に蘇る 佐多稲子集 (新潮日本文学23) 』。『キャラメル工場から』『素足の娘』『水』『くれない』『灰色の午後』など

参考文献

●「解説」(奥野健男)、「年譜」(佐多稲子研究会)※『佐多稲子集(新潮日本文学23)』(昭和46年発行)P.387-404 ●『りん として立つ 〜佐多稲子文学アルバム〜』(編:佐多稲子研究会  菁柿堂せいしどう  平成25年発行)P.24-31、P.65 ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.149-153 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(編・発行:東京都大田区立郷土博物館 平成8年発行)P.39、P.98-99


※当ページの最終修正年月日
2023.11.3

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