●『出家とその弟子』・・・・・倉田百三(くらた・ひゃくぞう)24歳で書いた戯曲。大正5(1916)年11月「生命の川」に掲載され、翌、大正6年、岩波書店より発行された。和辻哲郎、有島武郎、ロマン・ロランらが絶賛。ベストセラーになる。この本がきっかけで親鸞ブームが起こっった。仏訳、英訳もあり。

全体への愛と、個人的な愛は両立するか?
これは、 永遠の命題なのだと思う。

会社でも、学校でも、クラブ活動でも何でもいいが、二人の男女が人目をはばかるずに親密にしているとする。二人にしてみれば「好きで好きでしょうがない」のだから、しようがないのかもしれないが、他の人たちが微妙に疎外感を持つこともあるだろう。この小説は、そういった場面に置き換えて読むことだってできるのである。

または、今日は年に一度しか会えない、とっても大好きな彼氏に会える大切な日である。でも、よりによって、その大切な日に家族が風邪をこじらせて、ゼイゼイハアハアと苦しみだした。さてどうするか? というのでもいい。

じつのところ、世の中のあらゆる事象の根底には「全体への愛と、個人的な愛は両立するか」という命題が横たわっているのではないだろうか。

さて、物語の中では、唯円という僧侶が“かえで”という遊女に恋をするというのである。身分が僧侶ということもあって、唯円と“かえで”の逢い引きは、寺の中では許しがたいこととなる。だから、唯円が個人的に“かえで”を愛すれば愛するほど、寺の仲間を裏切り、傷つけてしまうのだ。

こういった泥沼である。しかし、この『出家とその弟子』では、その泥沼に、一筋の命綱が投げ込まれるのであった。その命綱のありがたいこと。神々しいこと。じわりと心に響き、涙が止まらなくなる。


『出家とその弟子』を読むには

『出家とその弟子』(岩波書店 大正7年)
『岩波文庫 出家とその弟子』(岩波書店 昭和2年)
『万葉大文庫 出家とその弟子』(万葉出版社 昭和22)
『新潮文庫  出家とその弟子』 (新潮社 昭和24年)
『角川文庫 出家とその弟子』 (角川書店 昭和26年)
『近代文庫 出家とその弟子』 (創芸社 昭和26年)
『新潮青春文学叢書 出家とその弟子』(新潮社 昭和30年)
『近代文庫 出家とその弟子』(近代文庫 昭和31年)
『出家とその弟子』(雪華社 昭和38年)
『旺文社文庫 出家とその弟子』(旺文社 昭和40年)
『アイドル・ブックス 出家とその弟子』(ポプラ社 昭和40年)
『ジュニア版 出家とその弟子』(偕成社 昭和43年)
『金園選書 出家とその弟子』(金園社 昭和44年)
『講談社文庫 出家とその弟子』(講談社 昭和46年)
『ジュニア版日本の文学 出家とその弟子』(集英社 昭和50年)

■『出家とその弟子』が読める図書館
国立国会図書館→全て所蔵)
東京都大田区立馬込図書館→を所蔵)
※ 他の図書館で『出家とその弟子』を見つけましたら、BBSでご教示ください。


■倉田百三について

原始的欲望の積極的肯定から、その挫折
明治24年(1891)年2月23日、広島の庄原市に生まれる。
旧制第一高等学校に入学。同級には矢内原忠雄芥川龍之介がいたが、倉田は彼らを振りきって主席になる秀才だった。異性への愛を含め、原始的な衝動を積極的に肯定し、キリスト教に進んでいた矢内原忠雄などと激しく論争。また、日本を代表する哲学者の西田幾太郎に直接手紙をだして、セックスの問題を投げかけるというようなこともしている。しかし、2年の時に結核を患い、断腸の思いで退学。肉体の衰えに、失恋、肉親の死などが重なり「人間は本能的な愛だけでは救われ得ない」ことを感得。キリスト教に接近した。大正4年(24歳)、西田天香の一灯園に入って托鉢行願の生活に入り、しだいに親鸞の思想にも共鳴するようになる。

『出家とその弟子』の大ヒット、オピニオンリーダーに
大正6年(26歳)、健康と経済が最悪の状態で書かれた『出家とその弟子』が、大ベストセラーとなり、一躍名声を得る。経済的にも恵まれ、健康も回復したという。しかし、この頃から弱者の立場に立つ発想は影をひそめ、超人的な資質を目指す努力主義へと傾斜していくのであった。武者小路実篤の「新しき村」へ関与。参禅も繰り返した。

日本主義への傾斜
昭和8年(42歳)、日本主義の団体の結成に参加。その機関誌「新日本」の編集長となった。昭和18年(1943年)2月12日、馬込の自宅で死去する。53歳だった。
現在、東京多磨霊園と広島庄原の倉田家墓所で眠っている( )。


倉田百三の馬込時代

大正9年(29歳)10月27日、妻子を明石に残して単身上京。大森の新井宿に住む。ちょうど『布施太子の入山』を執筆していた頃で、思想の転換期にあたる。しばらくして妻子を呼ぶが、家には前の恋人や女弟子も住まわせていたというから、かなりぶっ飛んだお人柄だったようだ。
大正13年(33歳)頃、現在「安田眼科」がある場所(南馬込3-37-8)に移動。そこに俳優の薄田研二が同居していたが、倉田の妻と駆け落ち。倉田が妻を喜んで譲ったともいう話もある。やはり、ぶっとんだお人柄のようだ。


参考文献

●『倉田百三』
(鈴木範久 大明堂 昭和55年)

●『文壇資料 馬込文学地図』
(近藤富枝 講談社 昭和51年)P.31-32

●『馬込文士村ガイドブック』
(大田区立郷土博物館編 平成8年 )P.31

● 『馬込文士村の作家たち』
(野村 裕 自費出版 昭和59年) P.133-138


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※当ページの最終修正年月日
2006.7.5