没我の状態で
ケンサク 2007/05/02(Wed) 13:39 .687

ヤフーで「文学」と検索すると、
このサイトが7番目に出てきてしまいます(07.5.2時点)。
張り合いのあることではありますが、
ちょっとヤバいなぁ(笑)。

それはそうと、先日、ピアニスト及川浩治氏のベートーベンを聴いてきました。
「ぼくにとってベートーベンは神以上の存在です」という及川氏のベートーベンです。

ベートーベンのピアノソナタ23番『熱情』の3楽章の一番最後、
あの民族音楽のテイストがあふれ出るところが私は大好きで、
その部分を彼がどのように弾きこなすかが楽しみでした。

ありきたりの言葉ですが、本当にスゴかった。
これはもう彼の鍵盤さばきを目の当たりにしていただくしかないのですが、
人間業とは思えないほどです。
映画『船の上のピアニスト』で
ピアノに紙巻きタバコを置くと激しい打鍵による加熱で燃えだす
という場面がありましたが、
まさにあんな感じです。
スケールはもう音の粒は聞き取れないほどの超高速で、
ワォンワォンと激しく唸っていました。
弾き終えた時の及川氏の表情を見逃さずに見ていたのですが、
一瞬、完全に白目になっていましたね。
没我の状態で弾いているのでしょう。
でなければあんな風には弾けません。きっと。

会場の喝采に応えてのアンコールは
ピアノソナタ『月光』。
通常だとあの有名な一楽章で静かにコンサートを終えるんじゃないかと思うのですが、
ひょっとしたら?と思ったら、ひょっとしました。
あの、また、怒濤のような3楽章まで弾くではありませんか。
もう「ブラボー!」を通り越して、「まいった!」です。

及川浩治 公式ホームページ→


感動文学
ケンサク 2007/04/23(Mon) 21:50 .685

文学をちゃんと研究しようというのではなく、
文学でワクワクどきどきしたいだけの人間の話なので
耳半分に聞いてもらいたいのですが、
前回「大衆文学」という言葉を使ったことに、
自分で少し引っかかるものを感じています。

「大衆文学」というのは純文学サイドからのちょっとした軽蔑語のような気がしてならないのです。
大衆受けをねらった「感動を生み出す(だけの)装置」としての文学という意味合いが感じられます。
「大衆」という言葉からして、
人を十把一絡げにして上から見て言ったような感じで、ちょっと・・・です。

多くの人に感動を呼ぶ文学がよくないはずもないので、
そうだこれからは「大衆文学」ではなく「感動文学」と呼ぶことにしよう。

そして純粋性は「純文学」の専売特許じゃないのだから、
「純文学」は「追求文学」なんてのはどうでしょう。

「大衆文学」と「純文学」の中間に位置するものを「中間小説(文学)」と呼ぶそうですが、
これもぱっとしませんね。
何かいいネーミングはないものでしょうか。
「戦後の尾崎士郎は「中間小説」を書き・・・」なんて説明文を読むと
「ああ、尾崎士郎も戦後はつまらないものしか書かなかったのだな・・・」と私なんかは思ってしまいます。

ついでに言えば、
「自然主義文学」って自然の風物を中心に綴るわけじゃなく、
自分をさらけ出すようなものだと思うので、
「正直文学」っていうのはどうでしょう。
志賀直哉が「自然主義」っていってもぴんときませんが、
「正直文学」だとしっくりきます、私は。

かなり「感動文学」が入ってきました!
    ↓
覗くブル


  正直文学
ケンサク 2007/04/24(Tue) 13:03 .686
  「正直文学」だってできます。
   ↓
頭を撫でられているブル

大衆文学と純文学
ケンサク 2007/04/22(Sun) 15:22 .684

ちょっと思ったことなんですが、
食わないでもやっていきます、 と言えちゃうのが大衆文学で、
食わないで2日もいるとやる気が失せてしまう自分に向き合うのが純文学だったりして。
本当に食わないでぶっ倒れるまでやったとしたら、
それはもう文学なんてものは超越してます。

少し前の写真を引っ張りだしてきました。
ちょっと純文やっているなぁと思いまして。

悲しい目のブルドッグ


つまずいた一節
ケンサク 2007/04/14(Sat) 13:47 .683

かなり長文です。
本多秋五氏の『志賀直哉(上・下)』(岩波新書)を読んでいて、
30年来の胸のつかえが下りた思いになっています。

こっ恥ずかしいことだが、進学を間近にしていた頃(大昔のことですね)、
私はかなり真剣に牧師になることを考えていた。
神学校の入学金は他より断然安かったし、それと、
イエスというダンディな男と、
マグダラのアリアという泥沼に咲く一輪の蓮の花のようなステキな女に
心底惚れてしまっていたので、
彼らに一歩でも二歩でも近づきたいという、そんな感じだった。

聖書の一句一句は心にしみた。
けっこう泣きながら読んでいた(あー恥ずかし)。
しかし、どうしても、受け入れられない、
受け入れたくてもどうにもならない一節があったのだ。

「すべて色情を懐きて女を見るものは、既に心のうちに姦淫したるなり」

(マタイ伝、五章)である。
他のことには相当がんばれる自信があったが、これだけはどうにもダメだった。
“それなりのもの”を見れば、(意思に係りなく)それなりに反応してしまったし、
“それなりのもの”を1週間も断とうものなら、
“それなりのもの”だけで頭がいっぱいになり、叫びだしそうになる。
ああ、なんと狂おしき青年期よ!
である。

もう、いろいろと調べました。
何とか救いの道はないものかと・・・。
でも「いいんじゃないの、人間だもの」
といったキリスト教関係の人の言葉には出会えず、
反対に、間違いを犯さないために自らの体の一部を切り取った聖職者がいたことなどを知り、
こりゃもうだめだ・・・と、首を垂れるしかなかった。
そうこうしているうちに、
性の抑圧が神経症を引き起こすといったフロイトとか、
もっともっと過激なライヒなどを読むようになり、
キリスト教から遠く遠く遠く・・・離れていったというしだい。

ここで、ようやく最初の本多秋五氏の『志賀直哉』に戻ると、
そこに先の「すべて色情を懐きて・・・」の一文に対する内村鑑三の解釈が書かれているではありませんか。
大正元年発行の内村鑑三の『誤訳正解』からの抜粋だ。
そこを読んで、私は思わず膝を打った。
内村鑑三は上の「すべて色情を懐きて・・・」は明らかに誤訳だというのだ。
本当は、

「凡そ色欲を遂げんとして婦を見るものは、既に心のうちに姦淫したるなり」

と訳すべきだと指摘する。
婦人(おそらく既婚女性)に行為を及ぼそうとするのがいけないということだろう。
これなら私にも実行できそうだ!
ようやく、つまずいた一文がクリアーできた思いになっている。

なぜこんなことが志賀直哉について書かれた本にあるかというと、
実は志賀直哉は内村鑑三の元に7年間通い、
やはりキリスト教の伝道者になることを考えていたとのことだ。
でも、やはり上の「すべて色情を懐きて・・・」でつまずいた、
というより、キリスト教の不自然さに憤り、
そして決然と離れていくのだった。
本多秋五氏は『志賀直哉』で、
志賀直哉は内村鑑三の「すべて色情を懐きて・・・」が誤訳であるという指摘を耳にしたり、
目にしなかったのだろうか? といぶかしげに述べている。

今回、内村鑑三は偉大だなと再確認し、
また、志賀直哉に親しみを持った。
それに、性の問題で悩むごまんといると予想されるクリスチャン青年は、
内村鑑三の『誤訳正解』や本多秋五氏の『志賀直哉』を読むと良いんじゃないかな?とおせっかい心も湧いてきた。

で、私、キリスト教にもどるかというと、
他にもいいものがたくさんあることを知ってしまった現在、
そんなことはとうていできません。
『フラガール』の蒼井 優ちゃん、かわい〜!とか、堂々と言いたいしね!
別にクリスチャンが言っちゃいけないわけではありませんが・・・

『志賀直哉』


粋な造本
ケンサク 2007/04/02(Mon) 00:31 .682

ようやく子母澤 寛の『勝海舟』の最終巻、第6巻に突入した。
これを読み終えたら今までに私が読んだ中で一番長い小説ということになるだろう。
1ページ進むごとに、未知の領域に足を踏みいれているようなワクワク感だ。

第6巻目を箱から取り出して、扉を開けて、ハッとした。
第1巻から第5巻までにはなかった口絵が出てきたからだ。
ぺらりと勝海舟の肖像写真。
第5巻まで読み終えて向き合う勝海舟はまた何とも味わい深く、
粋な造本であるな、と感心した。

第5巻目が終わり、江戸城の明け渡しも済んだ。
でも、まだ、「めでたし、めでたし」とはいかない。
官軍に引き渡すことを約束した海軍が
単独で逃走してしまうというたいへんなことが起きてしまうのだ。
まったく頭の痛い勝海舟である。
彼の戦いはいつまで続くんだろう・・・

『勝海舟』