かなり長文です。
本多秋五氏の『志賀直哉(上・下)』(岩波新書)を読んでいて、
30年来の胸のつかえが下りた思いになっています。
こっ恥ずかしいことだが、進学を間近にしていた頃(大昔のことですね)、
私はかなり真剣に牧師になることを考えていた。
神学校の入学金は他より断然安かったし、それと、
イエスというダンディな男と、
マグダラのアリアという泥沼に咲く一輪の蓮の花のようなステキな女に
心底惚れてしまっていたので、
彼らに一歩でも二歩でも近づきたいという、そんな感じだった。
聖書の一句一句は心にしみた。
けっこう泣きながら読んでいた(あー恥ずかし)。
しかし、どうしても、受け入れられない、
受け入れたくてもどうにもならない一節があったのだ。
「すべて色情を懐きて女を見るものは、既に心のうちに姦淫したるなり」
(マタイ伝、五章)である。
他のことには相当がんばれる自信があったが、これだけはどうにもダメだった。
“それなりのもの”を見れば、(意思に係りなく)それなりに反応してしまったし、
“それなりのもの”を1週間も断とうものなら、
“それなりのもの”だけで頭がいっぱいになり、叫びだしそうになる。
ああ、なんと狂おしき青年期よ!
である。
もう、いろいろと調べました。
何とか救いの道はないものかと・・・。
でも「いいんじゃないの、人間だもの」
といったキリスト教関係の人の言葉には出会えず、
反対に、間違いを犯さないために自らの体の一部を切り取った聖職者がいたことなどを知り、
こりゃもうだめだ・・・と、首を垂れるしかなかった。
そうこうしているうちに、
性の抑圧が神経症を引き起こすといったフロイトとか、
もっともっと過激なライヒなどを読むようになり、
キリスト教から遠く遠く遠く・・・離れていったというしだい。
ここで、ようやく最初の本多秋五氏の『志賀直哉』に戻ると、
そこに先の「すべて色情を懐きて・・・」の一文に対する内村鑑三の解釈が書かれているではありませんか。
大正元年発行の内村鑑三の『誤訳正解』からの抜粋だ。
そこを読んで、私は思わず膝を打った。
内村鑑三は上の「すべて色情を懐きて・・・」は明らかに誤訳だというのだ。
本当は、
「凡そ色欲を遂げんとして婦を見るものは、既に心のうちに姦淫したるなり」
と訳すべきだと指摘する。
婦人(おそらく既婚女性)に行為を及ぼそうとするのがいけないということだろう。
これなら私にも実行できそうだ!
ようやく、つまずいた一文がクリアーできた思いになっている。
なぜこんなことが志賀直哉について書かれた本にあるかというと、
実は志賀直哉は内村鑑三の元に7年間通い、
やはりキリスト教の伝道者になることを考えていたとのことだ。
でも、やはり上の「すべて色情を懐きて・・・」でつまずいた、
というより、キリスト教の不自然さに憤り、
そして決然と離れていくのだった。
本多秋五氏は『志賀直哉』で、
志賀直哉は内村鑑三の「すべて色情を懐きて・・・」が誤訳であるという指摘を耳にしたり、
目にしなかったのだろうか? といぶかしげに述べている。
今回、内村鑑三は偉大だなと再確認し、
また、志賀直哉に親しみを持った。
それに、性の問題で悩むごまんといると予想されるクリスチャン青年は、
内村鑑三の『誤訳正解』や本多秋五氏の『志賀直哉』を読むと良いんじゃないかな?とおせっかい心も湧いてきた。
で、私、キリスト教にもどるかというと、
他にもいいものがたくさんあることを知ってしまった現在、
そんなことはとうていできません。
『フラガール』の蒼井 優ちゃん、かわい〜!とか、堂々と言いたいしね!
別にクリスチャンが言っちゃいけないわけではありませんが・・・

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