最近「自分を主張することの恥ずかしさ」を大切にして仕事している人のことをよく耳にする。
先日、指揮者の金 聖響(きむ・せいきょう)さんへのインタビューを聞いていたら、やはりそのようなことを言っていた。彼が伝えたいのは、楽譜に書かれていること以上のことではない。演奏に自分の個性を盛り込むなんてことには全く興味ないという。伝えたいのは、たとえばベートーベンの5番なら5番の偉大さ。ただそれだけで十分だという。
今、注目されている建築家の隈 研吾さんも、モニュメンタルな立派過ぎる建造物をこれ見よがしに作ることは、とっても恥ずかしいことだという。彼が展望台を設計した。彼が設計した展望台は、展望台の機能は果たすが、それが建つ山の麓から展望台そのものは見ることができない。展望台を作った後に周りを埋め直して木を植えて展望台の姿を隠したという(瀬戸内海の亀老山展望台)。
文章・写真・図版を組み合わせてレイアウトする雑誌デザインなども、基本は己を虚しくすることに尽きるのだと思う。コンテンツを生かすことがデザインの目的なのだから、コンテンツよりもデザインが目立ったとしたら、それはやはり恥ずかしいことなのかもしれない。コンテンツがどうしようもなく弱い時(ない時)以外は、デザインは黒子でありたいと思っている。
デザインと違ってアートは作家のスタイル(作家性)が重要と言われてきたようだが、それでもやはり、自分の作品にでかでかとサインすることに恥ずかしさを覚える心ある作家が増えていると思う。
「ぼくが ぼくが」の文化は使命を果たし、静かに終わろうとしているのかもしれない。 |