●『大田文学地図』・・・染谷孝哉による東京都大田区の文学案内書。昭和46年、染谷の母親の一周忌に、蒼海出版から発行された(本書は亡母に捧げられている)。狩野
進・津村雪雄らが中心になって「大田文学地図刊行会」を発足させ、出版を押し進めた。本書は昭和30年頃から日本文学協会京浜支部ニュース「南風(はえ)」に染谷が連載したものを取りまとめたもので、馬込文学研究の資料としても第一級であろう。
染谷の死後、未発表の原稿をまとめて『大田文学地図 2』(平成5 城戸昇 編)も発行された。
むろん、食うだけは稼がねば人間日干しであるが、だからといって「年収●●●万円のいい仕事」といった仕事観だけでは、悲しすぎる。「それでは私自身、立つ瀬がない」といった個人的なことだけをいっているのではなく、そういった仕事観が最近もてはやされ、またその恐さ(もてはやされる恐さ)がさほど問題にされないから、いろいろズルする人が絶えないんだろうな、とも思う。
そもそも「仕事」とは何なのか? としばし考えを巡らせれば、言い古されているかもしれないが、やはり文字通り「事に仕えること」だと思う。それがピュアな意味であり、だから、やせ我慢していえば、ギャラなんてはあくまで二次的、三次的な問題だ(むろん、仕え甲斐のある仕事であることが前提で、かつ、人間日干しも、ぜひ避けたいが)。
上の考えに立てば、この本『大田文学地図』の著者の染谷さんなんかは、実にすばらしき仕事人間だ。彼の台所事情を心配した友人らが彼に仕事を紹介していたというから、彼の稼ぎはおそらくそんなに多くなかった。それでも彼が仕事人間といえるのは、まさに事に仕えていたからなのだ。仕事を紹介された時、彼は週三日以上の仕事は頑なに拒んだというが、それは彼には仕えるべき「仕事」がたくさんあって手一杯だったからなのだ。
そういった彼の「仕事」の集大成が、この『大田文学地図』なのである。
半端じゃない。この本の索引に並んだ人名は364名。これだけの作家を東京都大田区という一地域に結びつける作業は並大抵なことでない。今でこそ、この『大田文学地図』を含めて資料がいろいろあり、私などはそれを利用して大いに楽しているが、先駆者の彼は大変だ。
その「大仕事」に染谷さんは全力でぶつかっていたのだ。
染谷さんの仕事場が、今でも残っている。東京都大田区山王4丁目の弁天池のすぐ近くである。池を正面にして、その右手の、ちょっと見落としてしまいそうな感じに奥まった幅の狭い薄暗い階段を上っていくと、右手に懐かしい形のアパートが現れる。この一室で、彼は一人で暮らし、毎日毎日コツコツと文学に取り組んでいた。
彼はまったくすばらしき仕事人間だと、私は思う。

染谷さんが住んだ住吉荘
『大田文学地図』を読むには
現在読めるのは、『大田文学地図』(蒼海出版 昭和46年 )の一冊である。
所蔵している図書館は、
・国立国会図書館→
・東京都大田区立馬込図書館→(6冊も所蔵。さすが!)
・その他の東京都内のいくつかの図書館(町田市立図書館、府中市立図書館、渋谷区立図書館、世田谷区立図書館、目黒区立図書館、千代田区立図書館、中央区立図書館、清瀬市立図書館、豊島区立図書館、中野区立図書館、杉並区立図書館、台東区立図書館、葛飾区立図書館、東京都立図書館など)
など。
※他の図書館で『大田文学地図』を見つけましたら、ご教示ください。
染谷孝哉について
〜地域文学研究に捧げられた一生〜
大正7(1918)年、生まれ。日本文学協会京浜支部の代表的メンバーだった。区役所の臨時職員などをしながら地域の文学研究に取り組む。京浜支部の機関誌「南風(はえ)」の編集・印刷にも関わる(昭和30〜35年
46号まで)。弁天池の近くに母親と二人で住んでいたが、母親の死後は近くの住吉荘に移動し、終の棲家にした。
著書には、この『大田文学地図』の他に、『鎌倉 もうひとつの貌』(昭和55年)、『大田文学地図 2』(遺稿集)などがある。
昭和61(1986 )年11月7日、東京都大田区の大田病院で死去。68歳だった(
)。馬込文学圏の案内板(大森駅前など)には、染谷の功績を顕彰して、彼の愛した作家らとともにその名が刻まれている。
染谷孝哉関係地図

参考文献
●「染谷孝哉さんと『大田文学地図』」(佐藤美奈子)
※ 「わが町あれこれ 17号」(平成10年3月 春季号)P.28
このページへのパス
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※当ページの最終修正年月日
2006.9.26
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