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著者の野村裕は、長年馬込文学圏に住み、また同圏の中学で教鞭を取りながら、約30年間、教え子や地域の人たちと一緒になって、馬込文士村の研究に取り組んだ。教師みずからが研究課題を持ち、それに没頭。 そして、それを学校や地域の教育活動に生かしていく。いろいろとノルマを課されられたり、クレーム対応に追われてヘトヘトの現在の教師にはなかなかできることではないかもしれないが、一つの理想の教師像をそこにみる。

『馬込文士村の作家たち』 には作家たちが住んだ場所の現住所が表記されている。これはありがたい。作家たちが住んだ具体的な場所と、作家とその作品を重ね合わせてイメージすることができるのだ。彼らが身近な人に感じられ、彼らの作品により親しみがわくことだろう。 番地を文献からさがし出し、旧住所表記を現在の表記に変えるのは、骨の折れる作業だったと思う。

南馬込三丁目の現在○○さん宅になっている場所には、かつて萩原朔太郎が住んでいて、二階の和室で社交ダンスの会が持たれ、川端康成の秀子夫人や宇野千代らが来ていた。とか、現在の木原山ロッジの向かいに室生犀星が住んでいて、鉄という名のブルドックを飼っていた。とか、添田知道の住まいは目を疑うほどみすぼらしかった。とか・・・・・・。

作品は作品だけで味わうもので、作家の情報は不要、と考える方もいますが、私などは、書いた人のあれやこれやが分かったほうが、だんぜん面白く読める。作家の生活や生き方が作品とリンクしているのが面白い。


『馬込文士村の作家たち』 について

野村裕の著作。 馬込文学圏にゆかりのある作家の経歴と主な作品を紹介している。 昭和59年3月(65歳)、自費出版された。

野村裕 『馬込文士村の作家たち』
野村裕 『馬込文士村の作家たち』

野村裕について

少年時代から馬込作家の作品を読む
大正8年生まれ。 祖父の机上にあった一冊のプーシキンがきっかけになり、中学の頃から文学に傾倒、馬込作家の作品もよく読んだ。 国学院大学卒業後、静岡県清水中学校に勤務。 戦中は軍属の国語教師としてシンガポールに赴任した。

終戦後は、高等女学校に勤務。 昭和23年(29歳)から東京都大田区内の中学校で教鞭をとる。 生徒たちと馬込の作家について調べたのをきっかけに、馬込文士村研究にのめり込んでいく。 教頭をへて、昭和40年(46歳)から校長に。 昭和50年(56歳)、「(大田区立)馬込東中学校」(東京都大田区南馬込二丁目26-30 map→)で校長をしている時、文化祭で馬込文士村を紹介する展示を行った。 昭和54年(60歳)、公立学校を退職後、町田学園女子高等学校で教鞭をとり、地元では保護司も務めた。

馬込文士村を広める活動に尽力
昭和58年(64歳)、馬込青年館(現・馬込文化センター)で 「馬込文士村を語る」 と題して講演。 好評で、聴講者が中心になって研究サークル 「牛追村歴史と文芸の会」(後に 「馬込村文芸の会」 ) が結成された。 野村は常任講師となる。 翌昭和59年、 『馬込文士村の作家たち』 を自費出版。 馬込文士村を後世に伝える施設と作家が住んだ場所に立てる標識の設置を区に訴えた。

昭和60年9月11日、結核を再発し急逝。 66歳だった。 墓所は光教寺(中央四丁目 map→)( )。

没後3年して、馬込文士村(馬込文学圏)を伝える案内板などの施設の設置が始まる。

旗艦「サスケハナ」
馬込文学圏に立つ標識の一つ。 室生犀星の住居跡を示す。

野村裕と馬込文学圏

大正12年(4歳。馬込作家の中心的存在だった尾侮m郎宇野千代が当地に来た年)、両親につれられて大阪から当地(東京都大田区)に来る。「馬込小学校」を卒業。 後年、教職に就いて、最後は「(大田区立)馬込東中学校」(東京都大田区南馬込二丁目26-30 map→)の校長を務める。自宅も馬込東中学校の近くで、右斜め向かいに吉田甲子太郎の家があった。『馬込文士村の作家たち』 で、当地にいた頃の吉田に触れている。

馬込文学圏の野村裕関係地図→


参考文献

●「“いま”とのパイプ役果たした人(馬込文士村 No.40)」(谷口英久)※「産経新聞( 東京みなみ版)」平成3年6月11日掲載 ●『馬込村文芸の会 十年の歩み』(発行者:大澤富三郎 平成6年3月発行)P.13


参考サイト

馬込文士村ガイドの会/講演会 「父、野村裕を語る」 → ●馬込文士村へようこそ/散策の楽しみ方/馬込村文芸の会→


※当ページの最終修正年月日
2020.11.5

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