●『あらがね』・・・間宮茂輔(まみや・もすけ)の小説。昭和12(1937)年5月から翌年1月まで「人民文庫」に掲載され、翌年、小山書店で単行本化された。跋を広津和郎が書いている。かなり売れ、芥川賞の候補にもなった。大正7年に実際にあった落盤事故(おそらく筑豊炭坑での事故)とそれに伴う労働争議が下敷きになっている。『続・あらがね』もある。
鉱山での地獄絵巻・・・、落盤事故。坑道に閉じこめられた人たちの救出は困難だ。運良く助け出されても、不具になる者もいれば、恐怖によって発狂する者もいる。労働者は常に大きな危険にさらされているのだった。
しかもさらにやり切れないのが、人間関係である。
経営側としては会社の存続という譲れない一条はあるにはしても、だからといって人道に反していいはずはない。
労災で働けなくなった者を簡単に切り捨てていいものか?
苦しむ者を利用してうまい汁を吸うというようなことがあってもいいものか?
泣く者にさらに鞭を加えて点数を稼ごうという奴らが許されようか?

(『あらがね』より)
こんな修羅場が昔はあった。(今も形をかえてあるかもしれないが・・・)
小説では、この鉱山に、はるばる東京から曽根という青年がやって来る。曽根は、おそらく著者の間宮茂輔自身がモデルなのだろう。
この苦しみの多い現場にあって、曽根青年は、人道に反することに憤り、そしてそんな中でも健気に生きる人々に熱く共感し、彼らとともに懸命に働き、懸命に恋し、そして成長していくのだった。
『あらがね』を読むには
『あらがね』(小山書店
昭和13年 昭和21年改版)
『あらがね』(民衆社 昭和49年)
■『あらがね』を読むことができる図書館
・国立国会図書館→( を所蔵)
・東京都大田区立馬込図書館→( を所蔵)
※ 他の図書館で『あらがね』を見つけましたら、BBSでご教示ください。
間宮茂輔について
慶応大学を中退して鉱山へ、そして労働運動へと
明治32(1899)年2月20日、東京で生まれる。慶応大学仏文科に進むが、文学の道を家族に反対されて中退。天竜川上流の久根鉱山(静岡県磐田郡佐久間町)や瀬戸内海の灯台で働いて自立する。しばらくして東京に戻り、尾崎士郎らの「不同調」に参加。昭和4年(31歳)、「新潮」に『朽ちゆく望楼』を書いて、認められた。この頃からプロレタリア文学に接近し、労芸・ナップを経て、政治運動へも没入していく。昭和8年(35歳)、ストを指導したかどで検挙され4年間投獄。政治闘争からの離脱を誓わされて出獄した時は歩けないほど衰弱していた。
『あらがね』がヒット、労働文学を書く
昭和12年(40歳)に書かれた『あらがね』は、政治的な記述が巧みに避けられていたものの、米騒動の場面が検閲にひっかっかり短期間ではあったが間宮は再び投獄された。しかし、同作品はヒットし、芥川賞の有力候補にもなった。以後、他の作家にはない特殊な労働経験を下敷きに、海や鉱山を舞台にした作品を書く。
戦中は海軍の報道班員として中国や東南アジアへも渡った。
戦後は新日本文学、日朝協会、日本原水協に関わる。
昭和50(1975)年、78歳で死去。現在、池上本門寺(東京都大田区)に両親(間宮春四郎夫妻)とともに眠っている(
)。
間宮茂輔と馬込
大正15年(27歳)初冬頃、尾崎士郎のすすめに応じて馬込に来た。その時、カフェ
プランタンの堀江 貞という女性を伴っていたという。馬込に住むようになってからは尾崎家の飲み会の常連になった。住んだ場所は、南馬込3丁目(中井の里?)。
馬込で特に親しかったのが広津和郎。間宮は一時期、広津が経営する芸術社の社員だったこともある。間宮が政治運動に明け暮れて窮乏した時は、広津がかなり支援したようだ。間宮は『広津和郎〜この人との五十年〜』(昭和44年)という本も書いている。
参考文献
●『六頭目の馬〜間宮茂輔の生涯』
(間宮 武 武蔵野書房 平成6年)
●『大田文学地図』
(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年) P.32、P.62、P.64
●『文壇資料 馬込文学地図』
(近藤富枝 講談社 昭和51年) P.30-31
●『馬込文士村の作家たち』
(野村 裕 自費出版 昭和59年) P.173-176
参考サイト
●パンダ放送局>久根銅山の通洞の絵葉書→
●パンダ放送局>久根銅山の絵葉書その2→
操業時の久根銅山の様子
●雀の社会見学帳>廃きんぐ>久根鉱山
現在の久根銅山の様子が11頁にわたって詳細に紹介されています。
このページのパス
http://www.designroomrune.com/magome/m/mamiya/mamiya.html
※当ページの最終修正年月日
2006.7.8
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