●『桐の花』・・・北原白秋(きたはら・はくしゅう)が28歳で編んだ第一歌集。大正2(1913)年 東雲堂書店より発行された。挿絵・装丁を白秋自らが手がけている。
20代の終わり頃、白秋は牢屋に入っている。罪状は姦通罪。
学生の頃からすでに詩人として名声があった白秋である。事件はスキャンダラスに報じられ、白秋は同業の詩人や歌人らからも「文芸の汚辱者」との痛烈な誹りを受けることになるのであった。
この『桐の花』は、その直後に編まれた、白秋の第一歌集である。
その終わりの方に「哀傷篇」という一章があり、そこには事件のただ中で詠まれた歌が並んでいる。
君と見て一期の別れする時もダリアは紅しダリアは紅し
泣きそ泣きそあかき外の面の軒下の廻り燈籠に灯が點きにけり
狂人の赤き花見て叫ぶときわれらしみじみ出て尿する
鳩よ鳩よをかしからずや囚人の「三八七」が涙ながせる
鳳仙花われ礼すればむくつけき看守もうれしや目礼したり
監獄いでてじつと顫へて噛む林檎林檎さくさく身に染みわたる
※以上、『桐の花』「哀傷篇」から
別れのつらさの中でも赤々と燃えるようなダリアが印象的であったり、囚人馬車の窓の隙間からちらりと見えた廻り灯籠の美しさに胸が締めつけられたり、外でおしっこすることに叫び出したいほどの開放感を覚え、番号で呼ばれる立場に身を落としてふと身近な小動物が近しいものに思えたり、ちょっとした人情が深く心にしみ、そして、震えながら噛む林檎、そこには人生の味があった。
投獄という日常からの隔離は、不幸な体験であることには違いない。しかし、日常では忘れさられる“日常の輝き”を詩人に改めて教えたようだ。
『桐の花』を読むには
『桐の花』(東雲堂書店 大正2年)
『桐の花』(アルス 昭和21年)
『名著復刻詩歌文学館 桐の花』(日本近代文学館 昭和55年)
などで読むことができる。
■『桐の花』が読める図書館
・国立国会図書館→(  を所蔵)
・東京都大田区立馬込図書館→( を所蔵)
北原白秋について
裕福な家庭に生まれる
明治18(1885)年1月25日、母方の郷里熊本県南関町(なんかんちょう)で生れ、そして福岡県柳川で育つ。本名は北原隆吉。父の家は、海産物の問屋と酒の醸造・精米を営む地方有数の商家で、隆吉は良家の長男として育てられた。妹をチフスで亡くし、また明治23年(5歳)にはコレラが流行し、不安の多い幼少期を送る。母方の祖母と叔父らが隆吉に文学的影響を与えた。
非常に優秀、しかし退学
尋常小学校を主席で卒業し、高等小学校に入学するが2年飛級して、明治30年(12歳)に県立中学伝習館に入学する。ところが2年生の頃から文学へ傾倒し初め、3年に上がる時に落第。新聞への投稿や校内回覧誌の発行などを盛んに行い、校内新聞では校内全生徒500名のうち400名を参加させて学校の試験制度や管理教育を非難し、学校側と激しく対立した。白秋というペンネームはその頃から使っている。そして、卒業間近に中退。明治37年(19歳)、父長太郎とも対立。そして深刻化。早稲田大学出身の教師の影響や友中島白雨の自殺などもあって、上京を決意する。
早稲田在学中から、短歌と詩で脚光を浴びる
明治37年(19歳)、早稲田大学に入学。同級に若山牧水がいて宿を同じくする。翌年「早稲田学報」の懸賞で『全都覚醒賦』が一等となり、早くも詩壇から注目される。「韻文界の泉鏡花」とまでいわれるようになった。明治39年(21歳)、与謝野鉄幹の新詩社に参加、与謝野晶子、木下杢太郎(きのした・もくたろう)、石川啄木、吉井勇らと出会う。明治41年(23歳)、山本鼎らと「パンの会」を結成。翌年「スバル」の創刊に参加し、同年3月、初の詩集『邪宗門』発行。明治44年(26歳)、第二詩集『想ひ出』を発行。上田敏や芥川龍之介から激賞され、一躍詩壇の寵児となる。しかし、生家破産の重荷が白秋に肩にかかるようになり、借金に追われてか住まいを頻繁に替えるようになる。同年創刊された詩誌「朱欒」は、下宿先の土蔵の中でひっそりと編まれたという。人妻の俊子との苦恋と、三浦三崎・小笠原父島・小田原などへの転居を経る中で、第一歌集『桐の花』、『雲母集』、『白金之独楽』などが生まれる。繊細かつ絵画的・音楽的・享楽的な情緒に、骨太な情緒・自然への讃歌・宗教的な高揚が加わった。写生を突き詰めたところに現れる“象徴”が、詩の上で彼が目指したものである。事業においては、大正5年(31歳)、阿蘭陀書房を設立するが翌年失敗。新たに出版社「アルス」を設立した。
童謡運動への関与
大正7年(33歳)、鈴木三重吉の「赤い鳥」の童謡部門を担当、日本の風土に根ざした質の高い童謡運動を展開する。大正8年(34歳)、最初の童謡集『とんぼの眼玉』を発行。童謡に深く関わった動機には、3人目の妻佐藤菊子の温かい人柄や、2人の子どもに恵まれたことなどが挙げられる。
詩境深まる
昭和に入り活動の中心が再び短歌に戻ってくる。プロレタリア短歌を批判し、島木赤彦らの写生主義とも対立した。歌壇のセクト主義に対する反発心もあったようだ。「象徴」や「幽玄」な「情緒」や「浪漫」の復興を訴える。昭和10年(50歳)、多麿短歌会を結成し、「多麿」を創刊。昭和12年(52歳)、『新万葉集』の審査に没頭するも、選歌完了後、目の酷使と糖尿病と腎臓病の合併症で眼底出血を起こし、以後は薄明の中を生きることになる。それでも衰えることなく歌を作り続けた。昭和17年からは病床につくがそれでも創作を止めない。12月2日早朝、「ああ素晴らしい」との言葉を残し、57年の生涯を閉じた。墓所は多摩霊園(
)。
北原白秋と馬込
昭和2年3月(42歳)現在の東馬込2丁目に越してくる。生涯に27回引っ越しをしたという白秋の23回目の住まいだったそうだ。家は赤い屋根の洋館で、入口には青銅の鐘がぶら下がっているといった瀟洒なものだったが、小田原の家を除いてはすべて間借りか借家だったというので、ここも借家。文学者は清貧に甘んじるものなのであろう。芥川龍之介はここを「白秋城」と名付けた。
白秋が当地を選んだのは、妹夫婦(夫は山本
鼎)と、白秋門下の“三羽がらす”の一人萩原朔太郎が近くに住んでいたためと思われる。彼が住んだ辺りは緑ヶ丘と呼ばれ、展望がよく、白秋はこの地を愛し、詩にもよく詠った。「馬込緑ヶ丘」「谷の馬込」(『白南風(しらはえ)』所収)なる一文もある。
翌昭和3年(43歳)4月に世田谷に転居しまうので、約1年間の短い馬込住まいだった。もう一人の“三羽がらす”の室生犀星は、白秋が馬込を去った直後(昭和3年11月)に当地に来ている。
参考文献
●『新潮社日本文学アルバム 北原白秋』
(1986年 山本太郎 編集)
●『馬込文士村の作家たち』
(野村 裕 著 自費出版 昭和59年)P.26-45
●『文壇資料 馬込文学地図』
(近藤富枝 昭和51年 講談社)P.58-64
●『大田文学地図』
(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年)P.69
●『馬込文士村ガイドブック』
(大田区郷土博物館 平成8年)P.26-29
参考サイト
●松岡正剛の千夜千冊/1048夜 『北原白秋集』北原白秋→
●早稲田と文学/北原白秋→
●文学者掃苔録図書館/北原白秋→
●北原白秋記念館→
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※当ページの最終修正年月日
2008.1.26
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