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城昌幸『怪奇製造人』を読む(最後の一頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

作品集『怪奇製造人』には、城 昌幸の、不思議で、奇妙で、ちょっと恐い短編ミステリーが30編収められている。

江戸川乱歩のことを 「人生の怪奇を宝石のように拾い歩く詩人」と言った。表題作の「怪奇製造人」を読んでみる。

「私」が、夕暮れ時、古風な古本屋で豪華な装丁の一冊の日記帳を見つけるところから物語が始まる。大枚をはたいてそれを入手した「私」は、夜更けを待って、頁をめくった。

そこには、見た夢が記されている。

2月11日、奇妙な夢を見たとある。寝しなに飲んだ珈琲に入れたクリームが腐っていたため嫌な夢を見たのかな? と考える。

翌12日、また嫌な夢だ。どうやらクリームのせいではないようだ。夢の内容も詳しく記される。

・・・先ず最初私は廊下への扉が、鍵を掛けておいたのに、ごくかすかながらそうと開いてゆくのを感じた。感じたのである。見たのでも知ったのでもない。これが夢の様に思える所だ。扉がやっと人一人 這入はいれる程開かれると、青白い りん のような光線が部屋の中へ糸のように流れ込んで、それが私の寝台に注がれる。

「恐怖」はすぐにはやってこない。輪郭がはっきりしないのに、ジワジワ迫ってくる。

その微かな光の中に覆面をした片手の男が音もなく現れ、枕元に立つて顔を覗むようなのだ。

翌13日。 また嫌な夢だ。「私」はその男が自分を殺しにきたのだと思う。しかし、殺すのなら、3度訪れる必要があるだろうか? とも思う。一晩で充分ではないか? だから、これは夢に違いないと必死で思い込もうとする。

でも、夢であると完全に信じることもできない。やけに現実味を帯びているのだ。その曖昧さが「私」の恐怖を増幅させる。同じ夢をまた見るようなら、引っ越ししようと考える。

そして、日記は、いよいよ最後の頁となる。不思議なことに、その頁だけは今までと明らかに違う筆跡だ。誰が書いたのか? そして、そこに書かれた内容とは・・・


『怪奇製造人』について

城 昌幸の 『怪奇製造人』
城 昌幸『怪奇製造人』(国書刊行会)

城 昌幸のミステリー集。 昭和26年、岩谷書店から発行され、平成5年、国書刊行会から復刊。表題作の「怪奇製造人」他「秘密結社脱走人に まつわ る話」「その暴風雨」「シャンプオオル氏事件の顛末」などがミステリーを書き始めた大正14年(21歳)の作品の他、昭和34年(55歳)に発表された「古い長持」までの30篇を収録。


城 昌幸について

城昌幸
城 昌幸

詩人としての顔
明治37年6月10日(1904年)、東京神田駿河台東紅梅町(千代田区神田駿河台四丁目 Map→)で生まれる。父親は理学師で、母親は幕臣の家の出。

胸部疾患を理由に 京華けいか 中学(東京都文京区白山五丁目6-6 Map→)を中退。集団生活を嫌い、雑誌を耽読、詩作にふける。日夏耿之助、西条八十、堀口大学らの知遇を得、フランス象徴派の詩人アルベール・サマンから おん を借りて、 城 左門 じょう・さもん と名のる。 大正13年(20歳)より3年間、同人誌「東邦芸術」(後に「 奢灞都 サバト 」 と改題。サバトとはユダヤ教やキリスト教での安息日)を発行、昭和3年から2年間、岩佐東一郎らと同人誌「ドノゴ・トンカ」(ドノゴ・トンカとは、地理学者イイヴ・ル・トルアディックの『南米地誌(第三巻)』に出てくる幻の都市)を発行。昭和6年(27歳)からは岩佐と「文芸汎論」を創刊、14年間にわたり、「戦争期に直面せる日本の詩人たちにとつて唯一の自由な詩的精神の解放場」(『現代詩辞典』(飯塚書店))となったが、昭和19年、新聞雑誌統制法により廃刊となる。

戦後の昭和21年(42歳)、 詩誌「ゆうとぴあ(後に 「詩学」 と改題)」を創刊。その後「詩学」Site→は、平成29年に廃刊となるまでの61年間に、嵯峨信之らが編集長をつとめ、投稿欄から、茨城のり子、川崎 洋らがデビュー、黒田三郎、鮎川信夫、田村隆一、吉本隆明、谷川俊太郎、大岡 信らが活躍した。

詩誌の編集だけでなく、自身も、江戸文学やケルト幻想文学からの影響を受け、高踏的な詩を書き、第1詩集『近世無頼』(昭和5年。26歳)、『 槿花はちす戯書ざれがき 』(槿花は「きんか」とも、ムクゲのこと)、『月光がっこう 菩薩』などの詩集を残す。『月光菩薩』以降は仏教的作風となり、17詩集の『恩寵』に至る。

ミステリーの作家・編集者としての顔
基本、詩だけでは食っていけないので、大正末よりミステリーを手がける。この頃よりミステリー・ブームとなり(江戸川乱歩が明智小五郎を小説に初登場させたのも大正14年)、その機運にも思うところがあったのだろう。大正14年(21歳)、推理小説雑誌「新青年」に原稿を送付、熱烈に受け入れられる。その後、 『ジャマイカ氏の実験』、『人花』など次々に書く。物語は静かなトーンで、不思議な韻律をもつ、ごく短いもので、「ショート・ショートの先駆」と評される。探偵小説というより、幻想小説であろうか。 戦後は、詩と探偵小説の雑誌「宝石」の編集長(後に社長)となり、戦後のミステリー勃興期のリーダーとなる。

捕物帳作家としての顔
社会主義的・民主主義的な文化をまず弾圧した昭和初年からの文化・言論統制は、戦況の泥沼化に伴ってさらに苛烈となり、国策に寄与する要素のないミステリーの居場所もなくなっていく。ミステリー作家の多くが生活のため、当たり障りのない“正義”をぶら下げた時代小説や、国策にかなった軍事冒険小説などへと舵を切った。も『若さま侍捕物手帖』などの時代小説を書き始め、戦後にもおよび、その数何百編にも及ぶという。

「妻あり子なし、安住して酒を愛」 す。

いつも和服で足袋は1日に4度取り替えたとか。横溝正史の小説に登場する金田一耕助が和服なのは、「城編集長をからかってやろうという私の気まぐれ」からだったと横溝が書いている(城の洋装を見たことがあるのは横溝だけでそれも1度きり)。

昭和51年11月27日(1976年。72歳)、胃ガンにより死去( )。

城 昌幸『金紅樹(きんこうじゅ)の秘密』(講談社) 城 昌幸『若さま侍 〜時代小説英雄列伝〜 (中公文庫)』
城 昌幸金紅樹きんこうじゅの秘密』(講談社) 城 昌幸『若さま侍 〜時代小説英雄列伝〜 (中公文庫)』

城 昌幸と馬込文学圏

昭和6~7年(27~28歳)頃、臼田坂にあった「臼田甚五郎の家」(現在「ふじグレースマンション」(東京都大田区南馬込四丁目44-3 Map→) あたりにあった)の門前の家に住み、近所の山本周五郎北園克衛、石田一郎、秋山青磁らと親交した。戦後、が主宰した詩と探偵小説の雑誌「宝石」に北園が寄稿したのはこういった関係からか。

昭和31年(52歳)、『若さま侍捕物手帖』の印税で当地(マンション「セボン馬込」(東京都大田区中馬込四丁目14-4 Map→)あたり)に豪華な家を造る。ガラスは一切使わず、天井や襖には『若さま侍捕物手帖』の挿絵を描いた今村恒美つねみや志村立美たつみ らが絵を描き、贅を尽くす。そこを城は「其蜩庵きちょうあん 」と呼ぶ。 終の住処とし安住した。


参考文献

●「月光詩人の彷徨」(長山靖生) ※ 『怪奇製造人』 (国書刊行会 平成5年発行)の解説 ●「モダニズム探求誌「ドノゴトンカ Donogo-o-Tonka」」(中野貴志)nostos books→ ●『日本怪奇小説傑作集 2』(編:紀田順一郎、東 雅夫 東京創元社 平成17年発行)※「解説」(東 雅夫)P.485-489 ●「城 昌幸」(瀬沼茂樹)※「新潮日本文学小辞典」に収録 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(編・発行:大田区立郷土博物館  平成8年発行)P.44 ●『馬込文芸の会 十年の歩み』 (発行者:大沢富三郎 平成6年発行) ●『大田文学地図』 (染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.90 ●『馬込文士村の作家たち』 (野村 裕 美和タイプ印刷 昭和58年発行)P.239-242 ●『山本周五郎(新潮日本文学アルバム)』(昭和61年初版発行 同年発行2刷参照)P.43 ●「城 昌幸記念文庫(馬込図書館)」大田区立図書館→

※当ページの最終修正年月日
2023.4.30

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