船酔いに死ぬ思い

148年前の1月19日(旧暦)、咸臨丸 がアメリカに向けて浦賀港(神奈川県横須賀)を出航しました。2年前(安政5年)に締結された日米修好通商条約の批准がその目的。日本の船による初めての渡米です。

乗組員は、指揮官の木村摂津守(せっつのかみ)、艦長の勝海舟をはじめ、通訳の中浜万次郎(ジョン万次郎)、福沢諭吉、 瀬戸内の塩飽(あく)島の水夫らなど。子母澤 寛の『勝海舟』では、この航海の有様と、この航海に望んだ乗組員たちの後の生き様までが克明に描かれています。

 水主頭の仁作とっさんが、やっとの事で、麟太郎の室へやって来た。
「どうにも、ひどい荒れでごぜえやして」
 麟太郎はねたままで、うむうむうなずいたが、足許に、倒れている富蔵の方へ眼をやり、
「富蔵もいけねえようだ。おいらがこんなに参っているので水一ぺえもやれねえ。お前、見てやっておくれよ」
「へえ、へえ」
 仁作が富蔵を抱き起こした。富蔵は殆ど気を失っている。
「富、どうしやがったんだ、お前こんなところで、そんな態を見せちゃあ、国のお袋にすむめえぜ」
 富蔵は、かすかに眼を開いた。
「で、で、でえじょうぶです。亜米堅へ入る迄あ、殺されたって死にゃしやせん」
「しっかりしろ」
 仁作は水を汲んで来てやった。
 麟太郎も水をのんで、
「仁作、ほんとうに、みんな、殺されたって死なずに亜米堅にいかなくちゃあ、日本の男の面が立たねえのだ、頼むよ」
「先生のいつものお言葉だ、艦は波や風では沈まねえもんだですよ」
「そうだ、正にそうだぞ」
 佐々倉が倒れた、鈴藤が倒れた、運用方では浜口興右衛門一人がまだ元気でいるという知らせが、艦長室へ来た。浦賀同心で長崎伝習は第一期生だ。伴も少し怪しくなりかけている。松岡は倒れた、が小野友五郎だけは、相変わらず六分儀をにらんで平気でいるとのことだ。
「どうも弱い海軍さんばかりでございます」
 福沢は、その倒れ組の筆頭たる木村さんの介抱をしながら、時々傍らの大橋栄次へそんな冗談をいった。

(子母澤寛『勝海舟』※第2巻「咸臨丸渡米」(昭和40年11月10日4刷)P.98-99より)

38日間の航海のうち34日が荒天で、上の文から分かるように乗組員はたいへんな船酔いになりました。艦長の勝海舟からして航海の最初から船酔いに苦しみ、航海中ほぼ寝たきり状態だったようです。水夫の中には、船酔いによる消耗によってかアメリカに着いてから亡くなった方もいました。福沢諭吉はめっぽう強かったようです。

参考サイト:
よこすか歴史絵巻>咸臨丸、浦賀港を出港→
草の根コミュニティー in 横横>ふるさと歴史散歩>咸臨丸出港の碑 『乗組員の名も刻む』→
三浦半島テクテク散歩>歴史講座>咸臨丸人物辞典→
ウィキペディア>塩飽諸島→

※当ページの最終修正年月日
2007.1.18