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石川善助『亜寒帯』を読む/彼のサンクチュアリ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石川善助はなんだか悲しげだ。 子どもの頃、家は没落した。 片足が不自由でよく転んだという。 仕事もはかばかしくなく、彼の書簡を読むと、理想と現実の間でうめく声が聞こえてくる。

彼は詩集を1冊だけ残した、それも死んでから。 その詩集『亜寒帯』を読んでみよう。

冒頭に、28編の北太平洋の詩が並んでいる。北太平洋は、善助の故郷(仙台)の海。 2度ほど仕事で海に出たこともあった。

彼の眼前にはその身近な海が広がるが、想いは遥か北方のギリヤーク(樺太中部以北と海を挟んで大陸のアムール川下流域に住む少数民俗。ニヴフとも)や白夜の地を馳せる。

鉄と肉体を労作する漁区ぎょく に立ち、
あけぼの の神話をもつ胸と血は悲しい。

蝦夷松えぞまつの芽がはげしく空に荊棘いばら
ギリヤークの天末、動かぬ天体、
何もない、感官の彼方むこう
……かの白夜の微明スメルキ (「白鳥処女」より)

つらいことが多かったかもしれない。そんな時、遥かなる北方を想い、そこで安らいだのではないだろうか。北の自然は厳しい。でも、だからこそ神々しく、そこで自らも浄められ、生き力も湧いてきたのではないだろうか。イメージであるがゆえの確固たる不変性。・・・遥かなる北の大地は、善助の“サンクチュアリ(聖なる場所)”だったのだろう。


『亜寒帯』について

石川善助 『亜寒帯(復刻版)』(名著刊行会)
石川善助 『亜寒帯(復刻版)』(名著刊行会)

死後4年した昭和11年に発行された石川善助の唯一の詩集。島根県の安部宙之助と久幸勝信の全面的資金援助によって、島根県大社町原尚進堂から出版された。 草野心平らが編纂。 序は高村光太郎


石川善助について

石川善助 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『詩人 石川善助 〜そのロマンの系譜〜』
石川善助 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『詩人 石川善助 〜そのロマンの系譜〜』

片足不具にめげず
明治34(1901)年5月16日、宮城県仙台市国分町こくぶんちょう map→で生まれる。 母親の奥ゆかしさと父親の文学趣味を受け継ぐ。家は仙台屈指の小間物屋だったが、善助が少年の頃、倒産。 以後、経済的苦労があった。小児麻痺のため(異説あり)片足が悪く、晩年まで片足を引き摺りよく転んだ。

原始世界に思いを馳せる独自のロマン的傾向
仙台商業高校に学ぶ。 仙台定禅寺じょうぜんじ通りmap→の教会に赴任してきた山村暮鳥室生犀星、ロシア文学から影響を受け、詩作を始める。 卒業後、内ヶ崎酒店、呉服店(現在の藤崎百貨店)、仙台の明治製菓で働きながら詩作に励む。この頃1ヶ月ほど叔母の婚家のくじら 加工場(釜石)で過ごし、捕鯨船にも乗船。その時の体験が詩の重要なモチーフとなる。

大正11年(21歳)、中田信子らと「感触」を発行。その第7号に発表した「亜細亜あじあの祭壇 外十三篇」が百田宗治ももた・そうじ山村暮鳥から絶賛される。郡山弘史こおりやま・ひろし らと「北日本詩人」「L.S.M」、個人誌「航海」を出す。 地元仙台の民話研究にも興味を示し、童謡や童話もよく書いた。北方の原始世界を夢想するロマン的傾向を強める。

上京。そして、突然の死
昭和3年(27歳)、新天地を求めて上京。かなわぬ恋から逃れるためでもあった。詩友の栗木幸次郎の元(豊島区長崎)に身を寄せ、サトウハチローの紹介で史誌出版社(港区麻布)に勤め、主に東北文化史の研究誌「東北文化研究」の編纂に携わる。小森 盛、高村光太郎草野心平、尾崎喜八、宍戸儀一、尾形亀之助、佐藤惣之助らと交際。印刷所に転職するが長くは続かず困窮し、昭和7年1月(30歳)から、新宿十二社(じゅうにそう。現・東京都新宿区西新宿四丁目あたり map→)の草野心平(29歳)の家の二階に居候する。心平も貧しかったが、温かく迎えた。当時、西新宿の淀橋 角筈 つのはず 草野がやっていた焼き鳥屋「いわき」を手伝う。

昭和7年6月27日(31歳)、当地(東京都大田区)の大森駅近くの踏切の側の溝に落ち死去。 皎林寺こうりんじ (宮城県仙台市若林区荒町205 map→)に埋葬された( )。

死後、作品集が編まれる
生前作品集がなかったが、昭和8年(死後1年)、仙台に住む友人らの手で随筆集『 鴉射亭随筆あっしゃていずいひつ 』( 「鴉射亭(あしゃてい)」 は善助のペンネーム。エドガー・アラン・ポーを愛読しており、ポーの小説『アッシャー家の崩壊』Amazon→から取った)が編まれた。また、昭和11年(死後4年)、『亜寒帯』 、 昭和47年『石川善助童謡集』が編まれる。

石川善助
・ 「・・・さらつてこの人が関心した東洋の伝承は云ふ。しいたげず傷つけざるこの人のごとくにして、いまその身清爽せいそうならざるものに非ず、自ら責むるにあつ きこの人・・・」「高邁純潔」(宮沢賢治

『石川善助作品集〈1〉散文篇』(駒込書房)
石川善助作品集〈1〉散文篇』(駒込書房)

当地と石川善助

昭和3年(27歳)、東京に出てきてからの善助は、同じ東北出身の竹村俊郎をたびたび訪ねている。竹村の日記によると、少なくとも5回。 竹村が当地(東京都大田区南馬込一丁目59 map→)に越してくるのが昭和6年12月。 翌昭和7年の6月26日、善助はそこを訪ね、一杯やったあと、二人して大森駅近くのバー「白蛾」に繰り出した。たまたまいた詩人の近藤 あずま を交え午後10時頃まで飲み、その帰り道、大森駅近くの踏切あたりで死亡。 通過する列車の風を受けて近くの下水に転落、溺れたとされる。 発見された翌27日が命日となる。

作家別馬込文学圏地図「石川善助」→


参考文献

●『詩人 石川善助 ~そのロマンの系譜~』(藤 一也 萬葉堂出版 昭和56年発行)p.148 ●「石川善助とあの頃の詩人たち」(天江富弥 「河北新報」(昭和48年3月9日掲載)) ●『大田文学地図』)(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年)P.129、P.273-274 ●「賢治善助をめぐる書簡(学芸員資料ノート)」(赤間亜生)※「仙台文学館ニュース 第5号」(平成16年3月31日)P.6-7 ●「詩誌『L.S.M』 ~若き詩人たちの足跡〜(学芸員資料ノート)」(赤間亜生) ※「仙台文学館ニュース 第7号」(平成17年3月31日)P.6-7 ●『ふるさと文学館 第五巻』 (ぎょうせい 平成6年発行)※この文献では、善助の死因を「電車から落ちて」としている ●『最新大森区明細地図』(東京日日新聞発行所 昭和10年発行) ●『詩人 石川善助 資料(第一号)』(編集・発行:木村健司 昭和52年)P.59 ●「始原へ、不可能性へ 〜石川善助の詩の行方〜」(竹内英典)※「詩と思想」(土曜美術出版販売 平成30年10月号)


参考サイト

●ウィキペディア/・ざしき童子のはなし(平成25年5月2日更新版)→ ●Yahoo!知恵袋/昭和初期の1銭通貨は今で言うと1円の価値ですか?→


謝辞

●仙台ご在住のT.K様から、善助の詩碑と墓所の写真、仙台の古地図のコピー、善助関連の情報がある「仙台文学館ニュース」 、木村健司編・発行 「詩人 石川善助資料(1~3)」 のコピーなどを頂戴しました。ありがとうございます。 ● 詩誌を編集されているA.Y様から、過分なるお言葉をいただきました。ありがとうございます。 ●竹内英典様が「詩と思想」(平成30年11月号 土曜美術社出版販売)で、当地(東京都大田区)での善助の死にいたる状況についての拙論を紹介してくださいました。ありがとうございます。

※当ページの最終修正年月日
2020.7.24

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