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Japanese version only. |
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| 石川善助の『亜寒帯』を読む
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| (『亜寒帯』 北太平洋詩編 「白鳥処女」より) |
善助はつらい時、これら極北の地に安らぎを見いだしたのではなかろうか。 厳しさゆえの自然の禊ぎ、である。 または、イメージであるがゆえの不変か・・・。
遥かなる北の大地は、善助にとって“聖なる場所”だったのではなかろうか。
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| 『亜寒帯』 ※復刻版 |
石川善助の唯一の詩集。 死後4年(昭和11年)して、彼の詩の愛好者の安部宙之助と久幸勝信の全面的資金援助によって(※1)、島根県大社町原尚進堂から発行された。 草野心平らが編纂。 序を高村光太郎が書いている。 希少本だが、昭和45年、名著刊行会から復刻版が発行された。
※1 : 宮沢賢治も10円寄付している。 現在のお金に換算すると18,000円ほど。 参考サイト:Yahoo!知恵袋/昭和初期の1銭通貨は今で言うと1円の価値ですか?→
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| 石川善助 ※ 『詩人 石川善助 そのロマンの系譜』より |
片足不具にめげず
明治34(1901)年5月16日、宮城県仙台市国分町で生まれる。 母親の奥ゆかしさと父親の文学趣味を受け継ぐ。 家は仙台屈指の小間物屋だったが、善助が少年の頃、倒産。 以後、経済的苦労があった。 小児麻痺のため(異説あり)片足が悪く、晩年まで片足を引き摺り、よく転んだ。
原始世界に思いを馳せる独自のロマン的傾向
仙台商業高校に学ぶ。 仙台定禅寺通りの教会に赴任してきた山村暮鳥や、室生犀星、ロシア文学などから影響を受け、詩作を始める。 卒業後、内ヶ崎酒店、呉服店(現在の藤崎百貨店)、明治製菓(仙台)などで働きながら詩作に励む。 この頃、叔母の婚家の捕鯨船で北太平洋に乗り出し、その経験が詩作の重要なモチーフになった。
大正11年(21歳)、中田信子らと 「感触」 を発行。 その第7号に発表した 「亜細亜の祭壇外十三篇」 が百田宗治・山村暮鳥らから絶賛される。 大正13-14年(22-23歳)、郡山弘史らと 「北日本詩人」 、「L.S.M」 を出す。 その他、個人詩誌の 「航海」 も手掛けた。 携わった詩誌は多岐にわたり、地元仙台の民話研究にも興味を示し、童謡や童話もよく書いた。 北方の原始世界を夢想するロマン的傾向を強める。
上京。そして、突然の死
昭和3年9月8日上京(27歳)。 文学上の新天地を求めてということもあったようだが、仙台において数度味わった失恋も影響したようだ。 最初、詩友の栗木幸次郎の元(豊島区長崎)に身を寄せる。 しばらくしてサトウハチローの紹介で史誌出版社(港区麻布)に勤め、主に東北文化史の研究誌 「東北文化研究」 の編纂に携わった。 小森盛と詩誌 「冬至夏至」 を出し、また高村光太郎、草野心平、尾崎喜八、竹村俊郎、宍戸儀一、尾形亀之助、佐藤惣之助らとも交際する。 その後、史誌出版社を辞めて、印刷所で働くが適応できず退職。 売文による収入もはかばかしくなく貧しさが募って、昭和7年(31歳)、西新宿の淀橋角筈(つのはず)の草野心平(29歳)宅の2階に転がり込んだ。 心平も貧しかったが、善助を家族のように扱った。 善助は心平の焼き鳥屋 「いわき」 の手伝いもした。
昭和7(1932)年6月27日、馬込文学圏の大森駅近くの踏切で溝に墜落して死去。 満31歳。 仙台市荒町の皎林寺に埋葬された( )。
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| 善助の命日に。 Photo:Kobayashi Tutomu 2007.06.27 |
死後、作品集が編まれる
生前作品集がなかったが、昭和8年(死後1年)、仙台に住む友人らの手で随筆集 『鴉射亭随筆(あっしゃていずいひつ)』 が編まれた。 また、昭和11年(死後4年)、島根県と東京の友人・知人・愛読者らの手で詩集 『亜寒帯』 が編まれた。 昭和47年、 『石川善助童謡集』 も発行された。
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| 仙台市街が一望できる愛宕神社境内に建つ石川善助の詩碑。 Photo:Kobayashi Tutom 2005.05 |
昭和3年(27歳)、東京に出てきてからの善助は、同じ東北出身の竹村俊郎をたびたび訪ねている。 竹村の日記によると、少なくとも5回は竹村を訪ねた。 竹村が馬込文学圏(南馬込1丁目)に越してくるのが昭和6年12月。 善助は昭和7年6月26日、そこを訪ね、一杯やったあと、二人して大森駅近くのバー 「白蛾」 に繰り出した。 たまたまいた近藤東を交え午後10時頃まで飲み、その帰り道、善助は踏切で事故に合い死亡してしまうのだった。 通過する列車の風を受けて近くの下水に転落、溺れたとされる。 死亡推定時刻は、翌27日の深夜。
宮沢賢治との交友が知られる。 大正14年のクリスマスイブの日(推定)に、善助(24歳)は、森佐一を介して当時まだ無名だった賢治(29歳)に会っている。 二人は文学の話はあまりせず、座敷童の話で盛り上がったという。 二人は共通して座敷童の不思議な体験もっていた。 実際に顔を合わせたのは、この時と7年後の昭和7年のおそらく2回。 始めて会ってから善助は賢治を絶賛するようになり、雑誌や手紙を交わして親交を深めた。 賢治を童話の世界に導いたのは善助だったともいわれる。
善助の死後、賢治は善助の作品集の発行に心をくだき、 『鴉射亭随筆』 ができたときは、感激のあまり手にとって号泣した。 『鴉射亭随筆』 に寄せた賢治の弔慰文は以下のとおり(一部省略)。
石川さんを失つてすでに百日を経た。
いまはもう東京の夜の光の澱も、北日本を覆ふ雨の雲も、曾つてこの人が情熱と憤懣を載せて、その上を奔つた北太平洋もみなこの詩人の墓となつた。そこでは分つことも割ることもいらない、たゞ洞然たる真空の構成、永久の墳墓、永久の故郷である。しかもこの詩人の墓銘はうつくしい。一頃に七度衣を更へる水平線も、仙台の町裏の暮あいに、円く手をつないで唱ふ童子らの声も、凡そこの人が高邁の眉をあげた処、清澄の心耳を停めた処、そこにわれらはこの人の墓銘を読む。
賢治が善助の詩を熟読していたことが伺える文章だ。 賢治はこれを書いた頃、すでに病臥しており、翌年、彼も他界してしまう。
・ 『詩人 石川善助 〜そのロマンの系譜〜』(「日本の古本屋」で探す→)
(藤一也 萬葉堂出版 昭和56年)
・ 「石川善助とあの頃の詩人たち」
(天江富弥 河北新報 昭和48年3月9日)
・ 『亜寒帯(復刻版)』(Amazonで詳細を見る→)
(昭和45年 名著刊行会)
・ 『大田文学地図』(Amazonで詳細を見る→)
(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年) P.129、P.273-274
・ 「仙台文学館ニュース 第5号」 (平成16年3月31日) P.6-7
※ 「学芸員資料ノート “賢治と善助をめぐる書簡”」 (赤間亜生)
・「仙台文学館ニュース 第7号」 (平成17年3月31日)P.6-7
※ 「学芸員資料ノート“詩誌 『L.S.M』 〜若き詩人たちの足跡”」 (赤間亜生)
・ 『ふるさと文学館 第五巻』 (ぎょうせい 平成6年)
※この文献では、善助の死因を「電車から落ちて」としている。
・ 『最新大森区明細地図』
(東京日日新聞発行所 昭和10年)
・ 藤崎百貨店→
※善助が大正9年から15年まで勤めた所。当時は呉服店だった。部署は計算課。
仙台ご在住の小林努様から、善助の詩碑と墓所の写真、仙台の古地図、善助関連の情報がある 「仙台文学館ニュース」 などを頂戴しました。 ありがとうございます。
※当ページの最終修正年月日
2012.2.6