●『証言・戦時文壇史』・・・太平洋戦争時、情報局という文化統制機関に身をおいていた井上司朗(いのうえ・しろう)の著作。1984(昭和59)年、人間の科学社から発行された。戦中・戦後の文壇・出版界の意外なカラクリ。

一昔前、『愛される理由(わけ)』という本が本屋に並んでいたが、ここでは「叱られる理由」だ。

平野 謙という文芸評論家が、この本で、著者の井上司朗から手ひどく叱られている。実はこの『証言・戦時文壇史』が出た頃はすでに、かんじんの平野は故人である。でも、井上の怒気は全く収まらない。章の見出しからして「忘恩の輩・平野謙を弔う」である。

平野が叱られるのには理由があった。

時は太平洋戦争の頃、情報局というお役所があった。各種情報を“戦時下にふさわしい”ものに指導したところ、つまりは統制機関である。人の上に立てる部署だったろう。何しろ情報局のお墨付きがなければ、大家といえども執筆・出版がままならないご時勢だ。“情報局様々”だったと思う。

情報局の統制対象には、文学もあった。著者の井上は、その文芸課の課長として敏腕をふるい、平野はその下で働いていたのである。しかも平野は馬込にあった井上の家まで訪ね、熱心に頼み込んで情報局に入れてもらったという口で、そういう世話を井上から受けていた。

終戦を迎える。民主主義の世の中なると、一転して情報局は“悪の部署”となる。平和主義を弾圧したとして、関係者は戦争協力者とされるのだ。そこで活躍していた井上は世論で叩かれ、公職から追放されるという憂き目を見る。

一方の平野はといえば、途中で情報局を退いたこともあるが、戦後、上手く自らの“罪”はすり抜け、打ってかわって鞭打つ側に転身したというのである。平野にも情報局時代の大東亜戦争を賛美する文が残っている。それなのに「私はずっと平和主義者だった」という言動を取る。しかも文芸評論の筆を利用して、井上らの旧友・旧恩人らのことをこき下ろし始めたのだ。井上に言わせれば「人を叩いて自らの免罪符を得る」「恩を仇で返す」である。井上には我慢ならなかった。

平野が叱られるのには、こういった根深い、根深い「理由」があったのであった。


『証言・戦時文壇史』を読むには

『証言・戦時文壇史』(人間の科学社 昭和59年)
で読むことができる。

■『証言・戦時文壇史』が読める図書館
国立国会図書館→を所蔵)


井上司朗について

歌人であり、情報官であり
明治36(1903)年、東京で生まれる。東京大学政治科を卒業後、安田銀行を経て、内閣情報部情報局文芸課長・大蔵省監督官となる。
逗子八郎という筆名で歌を作り、昭和4(1929)年頃からは「短歌と方法」という短歌雑誌を主宰。作品集には『山のこゝろ』(昭和13年 35歳)、『雲烟(うんえん)』『山征かば』(昭和16年 38歳)、『八十氏川(やそうじがわ)』(昭和19年 41歳)などがある。山を詠んだ歌が特に評価されているそうだ。

戦後
戦後、戦時体制下における活動から公職から追放となった。後楽園スタジアムの取締役、ニッポン放送総務局長、監査役(昭和29年のニッポン放送の創立に参画した)などを歴任した。昭和57年から逗子開成高校の講師。大仏次郎や吉川英治らと親交があった。
平成3(1991)年、88歳で死去した。


井上司朗と馬込文学圏

情報局情報官時代、南馬込1-45に住んでいた。平野 謙が情報局入りを頼みに来たのもお礼にきたのも、この馬込の家のようだ。

ちなみに井上は、立教中学時代、馬込の作家吉田甲子太郎の教えを受けている。


参考文献

●『大田文学地図』
(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年)P.99-100


参考サイト

逗子開成中学・高等学校>学校案内>校歌→
井上司朗が作詞している。略歴あり。

●小関康幸のホームページ>コーヒーブレイク>情報局という呼称(1)→ 情報局という呼称(2)→

ウィキペディア>ニッポン放送→


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※当ページの最終修正年月日
2008.2.16